今季最強寒波と除雪

本日2月11日は「建国記念の日」です。我が家では祝日に「日の丸」を掲げます。今朝も7時過ぎに「日の丸」を玄関先に掲げて「一礼」。そして散歩しようと雪道を歩き始めると、広い通りの両脇に「雪の壁」ができていました。

今シーズン最強で最長の「大寒波」は、2月4日から10日まで断続的に富山を襲いました。我が家も家族総出で除雪する日が続きました。玄関先の車寄せは毎日スコップで、車庫の上の雪降ろしも数年ぶりに。毎日天気予報をチェックして、グループ会社の社員たちにも早めに帰宅してもらい、私は早朝4時からタイヤショベルでの除雪、富山は「雪国」であることを改めて感じた一週間でした。

実は、今朝も早い時間に除雪の重機が通る音を布団の中で聞いていたのですが、雪の峠は越したものと思って、気にもせずのんびりとしていたのでした。しかし道路に残っていた雪を削って新たつくられた道沿いの「雪の壁」。それも一日おいて水分を含んだ重くて硬い雪で、スコップでは手ごわい相手です。「これはいけない」と早々に散歩を切り上げて、タイヤショベルに乗って「除雪」スタート。頑固な雪の壁を取り除いていきます。いつもの三か所を一時間半余りかけて除雪しました。「除雪」は雪が降っている時に行うものと思い込んでいましたが、雪がおさまってからも行うことを知りました。

祝日の朝、玄関先でスコップを持って除雪しておられる方を多数見ました。その前をタイヤショベルで通り過ぎていく。スコップを止めてショベルを見上げる目線に、頭を下げて通り抜けるしかありません。そんな私も一段落がつけば、近所の方の除雪を手伝います(できる範囲ですが)。今朝も高齢の男性がスコップを持って自宅前を除雪しておられました。「ヘタですが、斜めに進んで玄関先の雪を取りましょうか?」と聞くと、「ばあちゃんが今日デイサービスで迎えの車が来るんで、頼みます。」という返事が。ヘタでも回数を重ねればできる!という思いで、恐る恐る玄関先の雪を取りました。

「これ以上は無理ですけど。」「じゅうぶんです、ありがとう。」地域の建設業としてのあるべき姿がここにあるのでは・・・と感じたひと時でした。

喪中はがきに想う

当ブログ「社長のひとりごと」、本年もよろしくお願いいたします。

毎年、年末年始になると喪中のはがき、寒中見舞いのはがきが数枚届くのですが、今回「えっ!」と思わず声を詰まらせてしまった方が二人おられました。

私の大学時代に、下宿していた大阪の風呂屋の息子さん。富山出身の初代が開業した風呂屋の二代目で、私より7、8歳年上の本人いわく「嫌々風呂屋を継いだ」ということでしたが、なかなか印象の強い人でした。大阪の風呂屋は富山出身者が多いらしく、確かこの方の叔父さんも風呂屋を営んでおられました。当時、私の従兄が北陸銀行の大阪支店に勤めていたご縁で、下宿先にと紹介されたのでした。2階に4畳半と6畳の部屋、水洗トイレ付き、屋上もあり、風呂入り放題で家賃1.5万円、ただし階下は「風呂釜」と「おがくず倉庫」。冬は暖かいのですが、夏は蒸し暑く、虫もちょくちょく出現、そこに昭和51年頃から約3年間下宿させてもらいました。自衛隊を辞めて昼間の大学生活を始めた時で、「憧れの大学生」のはずでしたが、一週間余りで「自衛隊シック」。一人でいることが寂しく、時間を持て余し、自衛隊にいたら今頃何をしていただろうか、そんなことばかり考えていました。一人で食事をしていても侘しい気持ちになったものです。その時に声をかけてくれたのが、この風呂屋の二代目の息子さんでした。喫茶店に誘ってくれたり、一緒にキャッチボールをしたり、魚釣りに行ったりしました。競馬にも連れて行ってくれました。なけなしの金をはたいたこともあり、世俗的な生活に馴染ませてもらいました。私も暇な時には「おがくず」をトラックから降ろす作業などを手伝ったりしていました。「寺やん!」という大きな声が、今でも私の耳の奥底に残っています。

もう一人は、私が中学三年生の時の担任の先生。当時三十代の女性で英語の先生でした。私はあまり成績が良くなかったので、先生もいろいろと困っておられたと思います。三年時の年末に父のすすめで受けた「少年工科学校」の一次試験があり、年明け早々に二次試験の面接、合否は1月中旬の発表だったと記憶しています。一次試験は学校で二つの教室を使っていましたから、80人ぐらい受験していたと思います。最終的な合格者は確か4名でした。合格発表の後、初めて先生にこの学校を受験して合格したことを伝え、「どうしたらいいですか?」と相談しました。先生からは「その学校へ行くんなら県立高校は受けんといて」と一言。予想外の言葉に唖然としたのを、今でもはっきりと覚えています。結果として高校受験をせずに、昭和46年4月5日に横須賀へ旅立ちました。先生に相談に行ったのに突き放されたと思っていましたが、よく考えてみればその一言で吹っ切れたのだと思います。言わば中途半端な私の背中をポンと押してくれたのです。あのまま高校を受験していたら、友達の多い地元の高校に進んでいたかもしれません。今となっては、先生には感謝の気持ちでいっぱいです。いつかこのことを伝えたかったのですが、残念ながら叶いませんでした。

私は多くの人たちに巡り会い、育てられました。すべての人たちに感謝です。

2025新年拝賀式 社長挨拶

皆さん、改めて明けましておめでとうございます。2025年、令和7年、昭和100年がスタートしました。

1月1日の日経新聞の一面トップに「備えよ日本」という言葉が大きく載っていました。アメリカのトランプ次期大統領は「アメリカ第一主義」を掲げ第二期政権をスタートさせます。アメリカ国内だけでなく日本に与える影響も大きいと考えます。また、中東問題、ウクライナ戦争、米中対立など国際社会は大きな変革期にいます。国内に目を向けると、自民党が少数与党となり野党の同意を必要とする政権となりました。そして「物価高騰」と「円安」が日本経済を苦しめています。

地方の中小企業といえども、国際社会の変化の荒波を受ける時代となりました。「備えよ日本」、その言葉は「備えよ寺崎工業」と言い換えられると思います。今年は例年にも増して慎重に行動する必要があります。そして当社は「出入りの大工」と「ファンを増やす」、この二つの品質方針に徹していかなければなりません。きめ細かな行動と配慮を心がけた営業、そして地縁・血縁を生かした「全社営業」で切れ目ない受注を目指し、お客様に満足してもらえる施工に努め、一歩一歩着実に歩んでいくことが大切だと考えます。

昨年は当社に7名の新しい仲間が加わり、総勢51名で創業102年目を迎えました。みんなで中身のあるGOODな会社づくりをしていきましょう。「いい年」とは会社の利益が出て皆さんに還元でき、無事故で、皆さんとその家族が元気で過ごせる年です。みんなでつくりあげましょう。

父のメガネ

今年も師走を迎え、気ぜわしい日々を過ごしています。年末の大掃除で父の遺品を整理していたところ、見覚えのある「メガネ」が出てきました。確かに父はこのメガネをかけて出勤していました。父は人生の苦楽をこのメガネを通して見て、日々を過ごしていたのでしょう。年代物ですがフレームはしっかりしていたため、レンズを入れ替えて、老眼鏡として私が使うことにしました。

先日、レンズの入れ替えを依頼したメガネ屋さんから「仕上りました」と連絡がありました。早速店へ行き、出来上がったばかりのメガネをかけて鏡を見ていると、父の顔が思い浮かびました。このメガネは、父とどんな経験をし、どんなモノを見てきたのか。感慨深いものがあります。

改めてかけてみますと、レンズのサイズが大きくて見やすい。実用的でオヤジらしいメガネです。「オヤジ、使ってるぞ!周りをよく見て行動するぞ!」心の中でつぶやきました。父と行動を共にしている感じがします。大事に、大事に、使っていくつもりです。

株主総会を終えて

昨日、当社の第81期株主総会がありました。総会には株主のほか、当社の役員および副部長以上の社員が出席します。会社の状況を知らせる意味で、毎年社員にも出席してもらっています。今期もいろいろなことがありましたが、決算の数字上でみるとまずまずの期でした。

突然ですが、新幹線はなぜ速いか?答えは全車両に駆動があるからです。在来線は一部の駆動車がほかの車両を引っ張っているため、スピードは出ません。会社も同じです。全社員が同じ方向を向いて前に進んでこそ会社の勢いが出ます。それぞれの役職の責任を果たしてこそ、真の目的が達成されます。誰一人として遊んでいるわけにはいきません。当社は「出入りの大工の姿勢」をモットーにしており、全社員がその思いを持って仕事に打ち込んでいます。地鎮祭に着る「印半纏(しるしばんてん)」はその気構えを表しています。来期もその意気込みで仕事をしていきます。

今回の総会で、息子が新たに役員(専務)に就任しました。昨年グループの100周年の行事を終え、今年で101年目を迎えています。そろそろ次のことを考える時期が来ました。新しい発想で会社経営を考えてもらいたいと思います。しかし、私もまだまだ走り続けるつもりです。

「走り」といえば11月3日の富山マラソンで、当社の社員6名が走りました。それも寺崎工業のTシャツをデザインして作成し、それを着て走ってくれました。うれしい限りです。後日行われた慰労会に私も出席し、労をねぎらい一緒に美酒を呑みました。その参加者のひとりが突然上着を脱いだと思ったら、下にそのTシャツを着ており、爆笑の渦に包まれました。とても楽しいひと時でした。

先日、鹿児島で開催された同期会に参加し、帰りにも熊本で同期生と会う3泊4日の旅をしてきました。交通手段は飛行機か新幹線かで迷いましたが、帰りは熊本に寄ること、飛行機なら羽田-富山便が夕方しかないことを考え、行きは鹿児島まで約8時間、帰りは熊本から約7時間の新幹線の旅を選択しました。

九州トナカイ(少年工科学校17期生の会)は毎年開催されていますが、今回は全国からも同期が集まって約50名の同期会となりました。九州以外では北海道・茨城・埼玉・京都・兵庫そして富山の同期が加わり、懇親会とゴルフが行われました。

卒業から50年、美少年で筋骨隆々だった同期が、今や腹が出て髪も薄くなり、見る影もないオジサンに変身、しかし、心は50年前に戻り、顔のしわから50年前の面影を探し出し、笑顔で再会できた喜びを分かち合い、家族や欠席の同期の消息等々、話が尽きない楽しい時間を過ごしました。当時の号令での生活が、今では全員が自衛隊を卒業し、第二の就職か悠々自適の生活、それぞれの道を歩いています。しかし、根底にはあの生活で得た「力」と「絆」を忘れてはいません。それが再会によって、また復活。とても貴重な時間でした。

帰りには鹿児島に来られなかった熊本の同期との食事会。4日間、観光は一つもない旅でしたが、私にとっては有意義な旅となりました。

帰りの新幹線で広島から一人の外国人青年が私の横に座りました。目が合うと微笑み返してくれたのですが、その目力や体格から、もしかして「軍」関係では?と思い、勇気を出して話しかけてみました。知っている限りの単語を使い、どこから?どこへ?仕事は?から会話を始め、私が自分の職業や出身地などを話し、陸上自衛隊(Ground Self‐Defense Force)にいたことも言いました。途中からは恥も外聞もなくスマホの翻訳機能を使い、声で日本語から英語に変換する機能で会話を広げました。何とカナダ軍の偵察隊にいたことがわかりました。彼に私の直感が当たったことを言うと笑顔で喜んでいました。現在は電気技術者として衛星の組み立てをしており、今回は3週間の日本旅行中とのことでした。今度は北海道に行きたいとも言っていました。私は「日本では旅行で三週間も休んだら会社の机が無くなる」と言って会話を楽しみました。広島から新大阪までの時間がとても短く感じられる充実したひと時でした。最後に握手をして「Have a nice day!」と言って別れました。彼は「ケーレイ」をしてくれました。それが自然でカッコよく、人柄も表していました。もっと英語を学んでおけばよかったなーと思った旅でもありました。

期末と期首

9月末で当社の第81期が終わりました。今期も社員には期末賞与を渡すことができて、嬉しく思っています。

建設業は一般的に「受注産業」「個別生産」「移動産業」などの特徴がありますが、建設業を一言で表すなら「水商売」と私は表現します。お客様から受注できるかできないか、どちらかしかないのが建設業の特徴だと考えます。先の見通しが立ちにくく売上や収入が不安定な水物の商売、今期が終われば、はや来期の心配です。

今期は創業101年目、それなりに緊張の期でした。結果として、創業100年の前期から見ると若干の減収・減益にはなるものの、まずまずの決算になるのではないかと思っています。そして、いろいろなことがあった期でした。人生の喜怒哀楽を感じた期でもありました。それを社員とともに知恵を出しながら乗り越えてきました。

9月27日、社員旅行に行ってきました。宇奈月温泉に一泊し、翌日は長野の善光寺にお参りに行きました。懇親会では早々から笑顔が飛び交い、二次会も大変盛り上がりました。中には三次会と称し、夜中の2時過ぎまで隣の部屋で呑んでいたという社員もいました。本人の言い訳は「捕まって帰してもらえなかった」、一緒に呑んでいた隣の部屋の人が言うには「居座って帰ってくれなかった」どちらでもいいのですが(笑)、今期が無事終わったことに社員のみんなが喜んだ、うれしいひと時でした。

10月から始まった第82期は、新たな仲間5名が加わってスタートしました。公共工事では国土強靭化で予算が強化されるものと思います。民間工事は更なる競争激化が予想されます。人件費をはじめ建設資材の値上げは続くと思われます。建築部門と土木部門、高岡本社と富山本店、この間のコミュニケーションをしっかり取ってgoodな会社づくりに取り組んでいきます。

いつも社員に言っていることですが、私は「会社が利益を出し、社員に還元でき、無事故で過ごし、社員とその家族が元気に過ごせる」のが良い期だと考えています。第82期も良い期に、みんなでつくりあげたいと考えています。

小松基地航空祭

9月23日、小松の航空祭に行ってきました。

自衛隊富山地方協力本部のバスで基地内に駐車できるというお話をいただき、ありがたく参加した次第です。朝6時30分頃に高岡を出発し、8時過ぎに小松基地に到着しました。小雨の降る中、小松インターを降りて基地へと向かう道路は同じ目的の車で渋滞、傘を差して歩く人たちやカッパを着て自転車に乗る人たちも同じ会場を目指していました。基地直前になると何十台も連なるシャトルバスが大勢の人を送迎している光景が見られました。何と人気の高いイベントなんだろうかと改めて感じつつ、何となく申し訳ない気持ちでバスに乗ったまま基地内に入れていただきました。

前日から能登半島北部を豪雨が襲い、私は航空祭の開催がどうなるのかと小松基地のホームページを何度も確認しました。村上基地司令は「直前まで悩み苦しんだが、能登の方に寄り添い、共に進むことをテーマに開催させてもらった」と話されました。いろいろなご意見があるかと思いますが、開催の決断をされたことは全国各地から来られる見学者にとっても良かったと思います。

朝からの小雨は降ったり止んだり、時折り黒い雲が垂れ込める中、メインの「ブルーインパルス」の展示飛行が始まりました。曲技飛行はなく編隊飛行のみでしたが、迫力のあるフライトを間近で見ることができました。そのほか地上展示の数々と力強い和太鼓などのステージイベントにも魅了されました。

滑走路で見学している中、一つの発見をしました。駐機場の一番端で陸自のヘリが三機着陸し、給油と整備をして、また飛んでいきました。最初は単純に航空祭の一環なのかと思っていましたが、その整備員をよく見ると、航空祭とは関係なく淡々と仕事をこなしておられる様子でした。

「そうか!陸自は能登の災害支援を行っているんだ!」と気付き、ありがたく、胸が熱くなりました。航空祭というイベントの開催と災害支援、相反する二つの課題に誠実に対応された隊員の方々に、敬意と感謝を表します。

元日の地震で大変な苦労をしておられる能登の方々に追い打ちをかけるように今回豪雨が襲いました。本当にお気の毒でなりません。そしてそのような中で開催された航空祭の隣で淡々と仕事をこなす自衛官の方々の姿、北陸の人間として本当にありがたく感じました。自衛隊の配慮の心、底力を感じた一日でした。

大曲の花火

一泊で秋田へ行ってきました。目的はズバリ「大曲の花火」。今年は8月31日(土)に開催されました。「日本一といわれる花火を観よう!」と私が会長を務める銀行の親睦会の旅行として計画し、実は昨年から段取りを始めていたのです。入場チケットの取り方、交通手段、宿泊先など、旅行代理店との打合せを重ねて、内容を組み立ててきました。地縁・血縁にも頼り、多少の不安はあったものの、最終的にはベターと思える旅程を作り上げました。ところがその週に日本に上陸した「台風10号」の想定外の動きでヒヤヒヤ。出発前日の午前中ギリギリに、銀行の支店長と旅行代理店と話し合って最終的に「Go!」と決断し参加者に連絡しました。万が一、翌日の秋田新幹線が動かなかった場合「帰りはバス」という選択肢も含めて実行に至りました。参加者27名、銀行からも2名来ていただき、結論からは「満足できる旅行」になったと思っています。

31日の当日、河川敷の会場は約10万人の観客であふれていました。川の対岸、幅約900メートルにわたって次々と花火が打ち上げられます。正式名称は「第96回全国花火競技大会」。選抜された28社の花火業者が技術を競い、合計約1万8千発の花火を打ち上げるもので、その華麗さ・壮大さ・迫力は圧巻でした。私たちは有難いことに、観客席を埋めた10万人の真ん中の最前列、首が痛くなるほどの角度で観覧。光と音が織りなす美しさ、そして儚くもある「総合芸術」を約3時間にわたり堪能させていただきました。雨上がり、視野に収まりきらないほどの「大空の大輪」に胸がいっぱいになり、思わず涙がこぼれました。それまでの苦労が報われ「来てよかった」と改めて感じた瞬間でした。

「打ち止め!」のアナウンス後は、観客と花火師が感謝を伝え合う「エール交換」。10万人の観客が一斉にペンライトを振りはじめ花火師に感謝の意を表し、対岸の花火師からもトーチが振られる感動的な光景で、会場全体が大きな一体感に包まれました。また退場時は10万人が出口へと動くわけですが、観客全員が整然と移動し、観客席には全くといっていいほどゴミが無かったのが印象的でした。日本人のマナーの素晴らしさを感じました。

宿泊先である秋田駅前のホテルには、午前12時半ごろ到着しました。ホッとした途端に腹が減り、夜中の1時頃に近くのラーメン屋へ行って、ラーメンと半チャーハンをペロリ!花火会場ではアルコールを吞みながら、つまみと弁当を食べていたのですが、「今宵だけは」と自分に言い聞かせて・・・。満腹になった後は、部屋に帰って、胃薬を飲み、風呂に入り、興奮冷めやらぬ中、ベッドに入ったのでした。

結婚式

8月17日、東京で娘の結婚式がありました。

前日16日は「非常に強い」台風7号による交通機関への影響が出ていたので、早めの北陸新幹線で東京へ向かい、当日の式場と宅急便到着の確認をしてからホテルに入りました。予報どおり昼過ぎから次第に雨風が強くなり、近隣の飲食店もあちこちで臨時休業、人通りも普段より少なかったように思います。外は荒れた天気でしたが、不思議と私の気持ちは穏やかでした。

娘が「今年のお盆に東京で結婚式を挙げたい」と言ってきた時、私は思わず「涼しくなってからにしたら?」と言いましたが、彼も娘も9月生まれで「ひとつ歳を取る前に式を挙げたい」との思いを聞き、賛成しました。

口の悪い同期からは、祝福や励ましの言葉をかけられました。「台風一過」「雨降って地固まる」「泣くぞ~」「ハンカチは必需品!」「バスタオル持っていけ!!」そして「息子が一人増えるな(笑)」・・・どれも温かい言葉だと、ありがたく受け取りました。

当日17日は快晴、台風の後で気温も上昇しましたが朝から青空が広がり、二人の門出としては最高の日だと感じました。幼かった娘がここまで成長し嫁ぐ日、親として「二人で幸せな家庭を築いてもらいたい」と願わずにはいられません。順風満帆な日々が続けばいいのですが、突然嵐が来たり危険な航路に直面して、判断を迷う時も出てきます。ともに乗り切ってもらいたいと心から思います。

同期にはメールで「泣くもんか!」と強気に伝えたものの、予行演習でバージンロードを一緒に歩いただけでウルウル。どうなることかと思いましたが、結婚式本番では何とか事なきを得て、牧師さんから心に沁みる「隣人を愛せよ」の説話を聞かせていただきました。

そして披露宴、友人の温かい祝辞から始まり、以前に「どんな曲が好き?」と聞かれた曲が演奏されて心が和み、メモリアルムービーでは幼かった二人の生い立ちからの写真、コメントとそれに合った曲、目頭が熱くなりました。そしてフィナーレは新婦が読む、親・家族への「お礼の言葉」。あの娘がこんなに心のこもった文章を書けるのかと驚きながら、一つひとつの言葉をかみしめました。やはりここでもウルウル。何度も目頭が熱くなりましたが、何とか耐えました。親が言うのもなんですが、本当にいい結婚式でした。

 結婚式と披露宴が終わり、私の妻と二人の息子は「友達と会うから」と、東京のホテルでもう一泊することに。そして私は当日夕方の北陸新幹線で帰宅の途に。なぜかしら「東京にはいたくない、帰りたい」という思いに駆られたのです。ポツンと一人、新幹線の車窓から夕暮れの都心や信州の山々をぼんやり眺めながら帰ったのでした。ウルウル。