喪中はがきに想う

当ブログ「社長のひとりごと」、本年もよろしくお願いいたします。

毎年、年末年始になると喪中のはがき、寒中見舞いのはがきが数枚届くのですが、今回「えっ!」と思わず声を詰まらせてしまった方が二人おられました。

私の大学時代に、下宿していた大阪の風呂屋の息子さん。富山出身の初代が開業した風呂屋の二代目で、私より7、8歳年上の本人いわく「嫌々風呂屋を継いだ」ということでしたが、なかなか印象の強い人でした。大阪の風呂屋は富山出身者が多いらしく、確かこの方の叔父さんも風呂屋を営んでおられました。当時、私の従兄が北陸銀行の大阪支店に勤めていたご縁で、下宿先にと紹介されたのでした。2階に4畳半と6畳の部屋、水洗トイレ付き、屋上もあり、風呂入り放題で家賃1.5万円、ただし階下は「風呂釜」と「おがくず倉庫」。冬は暖かいのですが、夏は蒸し暑く、虫もちょくちょく出現、そこに昭和51年頃から約3年間下宿させてもらいました。自衛隊を辞めて昼間の大学生活を始めた時で、「憧れの大学生」のはずでしたが、一週間余りで「自衛隊シック」。一人でいることが寂しく、時間を持て余し、自衛隊にいたら今頃何をしていただろうか、そんなことばかり考えていました。一人で食事をしていても侘しい気持ちになったものです。その時に声をかけてくれたのが、この風呂屋の二代目の息子さんでした。喫茶店に誘ってくれたり、一緒にキャッチボールをしたり、魚釣りに行ったりしました。競馬にも連れて行ってくれました。なけなしの金をはたいたこともあり、世俗的な生活に馴染ませてもらいました。私も暇な時には「おがくず」をトラックから降ろす作業などを手伝ったりしていました。「寺やん!」という大きな声が、今でも私の耳の奥底に残っています。

もう一人は、私が中学三年生の時の担任の先生。当時三十代の女性で英語の先生でした。私はあまり成績が良くなかったので、先生もいろいろと困っておられたと思います。三年時の年末に父のすすめで受けた「少年工科学校」の一次試験があり、年明け早々に二次試験の面接、合否は1月中旬の発表だったと記憶しています。一次試験は学校で二つの教室を使っていましたから、80人ぐらい受験していたと思います。最終的な合格者は確か4名でした。合格発表の後、初めて先生にこの学校を受験して合格したことを伝え、「どうしたらいいですか?」と相談しました。先生からは「その学校へ行くんなら県立高校は受けんといて」と一言。予想外の言葉に唖然としたのを、今でもはっきりと覚えています。結果として高校受験をせずに、昭和46年4月5日に横須賀へ旅立ちました。先生に相談に行ったのに突き放されたと思っていましたが、よく考えてみればその一言で吹っ切れたのだと思います。言わば中途半端な私の背中をポンと押してくれたのです。あのまま高校を受験していたら、友達の多い地元の高校に進んでいたかもしれません。今となっては、先生には感謝の気持ちでいっぱいです。いつかこのことを伝えたかったのですが、残念ながら叶いませんでした。

私は多くの人たちに巡り会い、育てられました。すべての人たちに感謝です。

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