先日、グループ会社の得意先である大阪の商社の方を、富山の奥座敷・宇奈月温泉の旅館「延楽」で接待しました。
二月の宇奈月はまだ雪が残り、黒部峡谷のトロッコ電車も動いていません。静かな旅館の温泉で身体を温め、酒は高岡の「勝駒」。おいしい料理とともに、楽しい時間を過ごしました。
その宴会の席で、ふと樺太の話題になりました。創業者である祖父寺﨑治作が会社を興した地であり、父寺﨑敏夫が幼い頃を過ごした場所でもあります。
そこで、父が子どもの頃に覚えたという「アイヌ語」の話になりました。私も幼い頃に父から教わりました。「ヤンガラフテ」という言葉です。私は長い間、それが本当にアイヌ語なのか、またどんな意味なのかも知らないままでした。
同席していた方がすぐにインターネットで調べてくれました。さすが商社マンです。どうやらそれは、アイヌ語の「イランカラプテ」。日本語では「こんにちは」にあたる挨拶の言葉だそうです。
自分でもよく覚えていたものだと感心しました。同時に、父はどこでこの言葉を聞き、なぜ私に教えたのだろうかと、不思議にも思いました。
父は幼い頃を樺太で過ごし、高校は北海道の小樽でした。樺太の家があったのは、当時のソビエト連邦との国境に近い「泊居(トマリオル)」という町です。
そこには樺太工業(のちの王子製紙)の泊居工場があり、祖父はその工場建設に従事し、会社を興しました。当時の泊居には女学校もあり、色街もあり、栄えていた町だったと聞いています。
しかし父は小樽に渡った後、敗戦の混乱もあって、故郷の泊居に戻ることはありませんでした。
現在、工場は廃墟となり、町も大火によって当時の跡形もありません。その跡地には、ロシア人が新しい町を作っているそうです。
以前、父がまだ元気だった頃に、「泊居に行ってみたいと思いませんか?」と尋ねたことがあります。その時、父はこう言いました。「故郷は遠きにありて思うもの。」父は、故郷の記憶をそのまま胸に残しておきたかったのかもしれません。
父がどんな少年時代を過ごしていたのか。アイヌの人たちと接する機会があったのか。今となっては知る由もありません。
ロシアとの関係は、今のところ回復の兆しが見えません。
それでも機会があれば、
祖父 治作がどのような場所で会社を創業したのか、そして父 敏夫がそこでどのように成長したのか。
私はその土地を一度訪れてみたいと思っています。
