「同期」

北海道の同期から「ゴルフに来ないか?」と誘いがあり、間を置くよりも早々に応えようと雪解けの4月に行ってきました。当日は羽田経由で午前中に新千歳空港へ到着、迎えに来てもらってゴルフ場へ直行、おにぎりを食べて18ホールを廻りました。翌日もコンビニでおにぎりを買い、それを朝食と昼食にあててプレーしました。晴天の中2日間、ゴルフを楽しみました。北海道での4月のゴルフは初めてであり、本州との違いを感じました。北海道のゴルフ場の本格的な営業は一般的に5月からということで、4月中はシーズンオフとのことです。お風呂には入れず、レストランも営業していない状況でしたが、料金はそれぞれ6千円台、8千円台とお手頃でした。今回は札幌にいる同期2人と、帯広にいる同期が北広島のゴルフ場まで2時間余りかけて、2日間付き合ってくれました。ありがたい限りです。

今シーズン初のゴルフ。楽しみと不安が入り混じる中、4人でコースを廻りました。お互いに名前は呼び捨て。美少年で筋肉隆々だったのが今や太鼓腹、髪も真っ白になり、薄くなり、顔のシワが目立ち・・・。後半はクラブを振った後にふらついてしまうだらしなさ。笑いがあふれました。気合いを入れても体力はついていかず、気持ちだけは16歳に戻ってのゴルフでした。同期の消息や学校の思い出など話が尽きることはありませんでした。そして「ゴルフ、何歳までできるかなぁ」「75歳ぐらいまでかなぁ」という会話。あと5年。16歳で出会い今70歳になろうとしている同期、あと何回会えるかという思いと、今この瞬間を楽しまなくてはという思いが交差する時間でした。

2日目の夜、札幌在住の別の同期も宴会に加わり、場を盛り上げてくれました。その時、私と親しくしていて卒業以来会ったことのない同期の話になりました。彼は陸上航空(陸上自衛隊の航空科)のパイロットをしていて、ほとんど北海道内での勤務と聞いていました。その彼が「余命宣告」を受けたとの話になり、急激に酔いが冷めていきました。その場から、何回か教えてもらっていた彼の携帯に電話しましたが、繋がりませんでした。富山に帰る翌朝も電話しましたが繋がらず、ショートメールで「元気ですか。話は聞いた、よかったら電話ください。」と入れたところ、新千歳空港に着いた頃に、彼からメールが入りました。「明日から入院、もう家にも帰れないかも。元気なうちに会いたかった、さようなら。」私は読むか読まないかのうちに電話をかけました。出てくれ!何回かのコールの後、50年ぶりの声が!「元気なうちに会いたかった」と言われた途端、涙があふれました。お互い嗚咽になりましたが「元気になって会おう、最後まであきらめるな」という言葉を何とか絞り出しました。しばらくは放心状態でした。

富山に帰ってから何回かメールを送っていますが、彼からの返信はありません。しかし、送り続けます。「同期」だからです。

2025入社式 社長挨拶

この春、我が社に1名の新入社員が仲間入りしました。

入社おめでとうございます。いま緊張の中にいると思いますが、ここにいるみんなが歩んできた道です。あせることなく、ゆっくりと一歩ずつ歩んでください。今日は入社に際して、意識してほしい3つのことをお伝えします。

まずは「挨拶をする」いうことです。挨拶はコミュニケーションの基本です。朝の「おはようございます」から始まり、「お疲れ様です」、「お先に失礼します」まで、相手に身体を向けて目を見て、しっかりと挨拶してください。会社では人生の先輩がいろんなことを教えてくれます。挨拶から始まり、教えを聞き、そして質問をしてください。聞いて理解しているからこそ、質問ができるのです。質問することで相手もこちらを信頼してくれます。「わからなければ聞く」ということを習慣にしてもらいたいと思います。それと小さなノートを持ちメモを取る習慣を身に付けてください。社会では積極的に情報を取る姿勢が求められます。大げさかもしれませんが、学校では教室で座っていれば先生がいろんな情報を与えてくれた、いわば「受け身の教育」でした。これと違い、社会ではまず「自ら情報を取りにいく」ことが求められます。ジッとしていては情報をもらえません。これから出会う人生の先輩に、いろんなことをどんどん聞いて、多くの知識を蓄えてもらいたいと思います。そのためには挨拶から始まり、コミュニケーションの幅を広げ、積極的に情報を取ることを心がけてください。

2つ目は「安全への意識」です。学校では「安全」ということについてあまり考えてこなかったかもしれません。社会では「安全はすべてに優先」します。「工事の安全」は大事な要素です。重大事故が発生すると官庁工事では指名停止になり、受注の機会を失います。民間工事でもお客さんに多大な迷惑をかけ信用を落とします。事故はあってはいけないことです。現場は一日一日、完成に向かって変化していきます。昨日と同じだと勝手に判断して行動していると、事故に結びつきます。現場では毎朝、作業の打ち合わせをします。どんな工種の業者が入り、工事の作業内容は何なのか、そしてどこに危険が隠れているのか、最初のうちは先輩の指導に従って行動し、安全への意識を高めてください。そして徐々に知識を蓄えることで、安全に対する「勘」を磨いてほしいと思います。

3つ目ですが、「会社には無駄な仕事はない」ということです。コピー取りなど単純な仕事もあると思いますが、それにも意味があります。どこを中心にコピーするのか、相手が欲しているものは何なのか、いろいろと考えることがあります。また、現場においては「清掃」という作業も多々出てきます。この作業を無駄だとは決して思わないでください。清掃は安全に直結しますし、作業効率を高めることにもなります。品質管理や工程管理につながりますし、清掃しながら現場を理解することにもなります。私の経験から、清掃が行き届いている現場は、事故がなく利益も出る現場だといえます。またお客さんの評価も上がります。学校では教室で「知識」を学びました。これを社会では「知恵」に変えていかねばなりません。そのためには「知識」+「経験」が大事になってきます。現場での作業や人との交流を通じて、今持っている「基本の知識」を「生きた知恵」に変えてもらいたいと思います。

あせらずに、一歩一歩を確実に歩んで、成長してください。期待しています。ここにいる全員が歓迎するとともに、心から応援をしています。

卒園式

昨日、春らしい陽気の中、関連法人の保育園の卒園式が行われました。

卒園児のご両親はスーツ姿や洒落た服装で出席されていました。奥さんはスマホを持って前のほうへ着席、旦那さんは後ろで立ったままビデオ撮影、近頃の卒園式ならではの光景です。そういう私も後ろで三脚を立てて撮影していた一人でした。

「卒園児入場」、卒園児たちが大人びたネクタイ姿やスカート姿で、自慢げに満面の笑みを浮かべての入場です。「卒園証書授与」、園長先生から証書をもらい、それを親に預けるわずかなタイミングで見せる親子の微笑みが幸せを感じさせてくれます。

そして式の最後に、卒園児が「お別れの言葉」として歌で一年の思い出を紹介するのですが、あれだけの長い内容・歌詞を、よく覚えられるものだと感心しました。一人ひとりに慈愛のこもった目配りをしながら指揮する担任の保育士さん、そしてそれに応えようとする卒園児、観ている私は胸がいっぱいになり、熱いものがこみ上げてきました。歌詞も「みんな他人とは違う自分の色を持っている。それが集まると素敵な色になり、鮮やかに光る。みんな違う色でいい、知らない色を探しに行こう。」という内容だったと思います。この歌詞の意味を卒園児さんはしっかり理解しているなと私は感じました。これからも自分の個性を大切にし、周りの友達の個性も尊重し合って、共に成長してもらいたいと考えます。

ふと思い出したことがあります。何年か前の運動会で年長児による騎馬戦があり、親が参加できないとのことで急きょ、私が「馬」になったことがありました。帽子を取ったか取られたかは覚えていませんが、その後、私が園内を歩いていると、騎手役だった子が教室から走って私の前に出てきました。満面の笑みでした。「元気にしてるか?」と言うとニコッとうなずいてくれました。大切な思い出を創れたと感じ、嬉しく思いました。

「三つ子の魂百まで」、保育園での出会いは子供たちにとって親以外の人と会う初めての場、一生の中でも大切な場であることを改めて感じました。

”蔦重”

先日、NHKの「英雄たちの選択 スペシャル 大江戸エンタメ革命」という番組を観ました。今年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の“蔦重(つたじゅう)”こと「蔦屋重三郎」を時代背景とともに取り上げていました。

時代は18世紀の江戸、老中は田沼意次。江戸の町民文化が花開き、脂の乗った時代、蔦重は文化の発信地「吉原」を舞台に遊郭の「ガイドブック」を刊行して話題を呼び、版元、編集者として江戸文化を大いに盛り上げました。ところがその後、松平定信の時代になると「寛政の改革」のもと質素倹約が奨励され、江戸文化の魅力を規制する動きが強まり、蔦重は窮地に陥ります。そんな厳しい規制の中で見つけたのは、歌麿らが描く「美人画」。花魁(おいらん)や茶屋の町娘を「ブロマイド」として描いたもので再起を図ります。幕府はそれでも版元である蔦重に圧力をかけます。それに対し苦渋の選択で、蔦重は版元の名や絵師の名も消した木版画を世に出しました。

寛政の改革は5年間続き、松平定信の老中辞任で幕を降ろします。そのあと蔦重が目を付けたのは、芝居小屋の「役者絵」。写楽らが描く今までの美人画とは違う写実的な、いわば不細工な浮世絵を出しましたが、役者の欠点的な特徴までもが強調される作風が不評のまま、蔦重は寛政9年に48歳で生涯を終えました。

しかし、その蔦重の版元からは次の時代を彩った版元がいくつも誕生します。また後世、写実的で不細工な絵はヨーロッパの地で評価が高まります。蔦重には時代の先が見えていたのでしょう。その時代、お上の規制を巧みに乗り越え、職人たちの生活を守り、華やかな江戸文化の立役者となったのが“蔦重”こと「蔦屋重三郎」でした。

私は以前から、NHKの大河ドラマは現代を反映している番組だと思っています。今の世は、令和の脂が乗った時代だと思います。飽食の時代である一方、海外の影響や我が国の政権で我々の生活が変わる時代、その中でいかに知恵を使い生き残れるか、蔦重の時代と似ていると感じます。

また、蔦重はすべて「紙」で文化を伝えました。永い間、文化は紙で伝えられ「紙は文化のバロメーター」と言われてきました。しかし今ではペーパーレスの時代となり、その言葉も危うくなりつつあります。現に新聞や書籍の発行部数は減るばかりです。デジタルやディスプレイ上でしか表現できない文化、それが次の時代に残せるのか、疑問に思います。

私はインターネットで読む文字は「見る」と表現します。新聞や書籍では、それこそ「読む」です。「見る」と「読む」では大きな違いです。私は紙文化の「復興」ではなく、紙文化の「繁栄」を祈念したいと思います。

追伸 2024年の新聞用紙の生産量は5年前に比べると約4割も減少しています。ある知り合いの紙屋さんは「このままでいいのか!」と嘆き、紙文化が伝承されることを心から願っておられました。

今季最強寒波と除雪

本日2月11日は「建国記念の日」です。我が家では祝日に「日の丸」を掲げます。今朝も7時過ぎに「日の丸」を玄関先に掲げて「一礼」。そして散歩しようと雪道を歩き始めると、広い通りの両脇に「雪の壁」ができていました。

今シーズン最強で最長の「大寒波」は、2月4日から10日まで断続的に富山を襲いました。我が家も家族総出で除雪する日が続きました。玄関先の車寄せは毎日スコップで、車庫の上の雪降ろしも数年ぶりに。毎日天気予報をチェックして、グループ会社の社員たちにも早めに帰宅してもらい、私は早朝4時からタイヤショベルでの除雪、富山は「雪国」であることを改めて感じた一週間でした。

実は、今朝も早い時間に除雪の重機が通る音を布団の中で聞いていたのですが、雪の峠は越したものと思って、気にもせずのんびりとしていたのでした。しかし道路に残っていた雪を削って新たつくられた道沿いの「雪の壁」。それも一日おいて水分を含んだ重くて硬い雪で、スコップでは手ごわい相手です。「これはいけない」と早々に散歩を切り上げて、タイヤショベルに乗って「除雪」スタート。頑固な雪の壁を取り除いていきます。いつもの三か所を一時間半余りかけて除雪しました。「除雪」は雪が降っている時に行うものと思い込んでいましたが、雪がおさまってからも行うことを知りました。

祝日の朝、玄関先でスコップを持って除雪しておられる方を多数見ました。その前をタイヤショベルで通り過ぎていく。スコップを止めてショベルを見上げる目線に、頭を下げて通り抜けるしかありません。そんな私も一段落がつけば、近所の方の除雪を手伝います(できる範囲ですが)。今朝も高齢の男性がスコップを持って自宅前を除雪しておられました。「ヘタですが、斜めに進んで玄関先の雪を取りましょうか?」と聞くと、「ばあちゃんが今日デイサービスで迎えの車が来るんで、頼みます。」という返事が。ヘタでも回数を重ねればできる!という思いで、恐る恐る玄関先の雪を取りました。

「これ以上は無理ですけど。」「じゅうぶんです、ありがとう。」地域の建設業としてのあるべき姿がここにあるのでは・・・と感じたひと時でした。

喪中はがきに想う

当ブログ「社長のひとりごと」、本年もよろしくお願いいたします。

毎年、年末年始になると喪中のはがき、寒中見舞いのはがきが数枚届くのですが、今回「えっ!」と思わず声を詰まらせてしまった方が二人おられました。

私の大学時代に、下宿していた大阪の風呂屋の息子さん。富山出身の初代が開業した風呂屋の二代目で、私より7、8歳年上の本人いわく「嫌々風呂屋を継いだ」ということでしたが、なかなか印象の強い人でした。大阪の風呂屋は富山出身者が多いらしく、確かこの方の叔父さんも風呂屋を営んでおられました。当時、私の従兄が北陸銀行の大阪支店に勤めていたご縁で、下宿先にと紹介されたのでした。2階に4畳半と6畳の部屋、水洗トイレ付き、屋上もあり、風呂入り放題で家賃1.5万円、ただし階下は「風呂釜」と「おがくず倉庫」。冬は暖かいのですが、夏は蒸し暑く、虫もちょくちょく出現、そこに昭和51年頃から約3年間下宿させてもらいました。自衛隊を辞めて昼間の大学生活を始めた時で、「憧れの大学生」のはずでしたが、一週間余りで「自衛隊シック」。一人でいることが寂しく、時間を持て余し、自衛隊にいたら今頃何をしていただろうか、そんなことばかり考えていました。一人で食事をしていても侘しい気持ちになったものです。その時に声をかけてくれたのが、この風呂屋の二代目の息子さんでした。喫茶店に誘ってくれたり、一緒にキャッチボールをしたり、魚釣りに行ったりしました。競馬にも連れて行ってくれました。なけなしの金をはたいたこともあり、世俗的な生活に馴染ませてもらいました。私も暇な時には「おがくず」をトラックから降ろす作業などを手伝ったりしていました。「寺やん!」という大きな声が、今でも私の耳の奥底に残っています。

もう一人は、私が中学三年生の時の担任の先生。当時三十代の女性で英語の先生でした。私はあまり成績が良くなかったので、先生もいろいろと困っておられたと思います。三年時の年末に父のすすめで受けた「少年工科学校」の一次試験があり、年明け早々に二次試験の面接、合否は1月中旬の発表だったと記憶しています。一次試験は学校で二つの教室を使っていましたから、80人ぐらい受験していたと思います。最終的な合格者は確か4名でした。合格発表の後、初めて先生にこの学校を受験して合格したことを伝え、「どうしたらいいですか?」と相談しました。先生からは「その学校へ行くんなら県立高校は受けんといて」と一言。予想外の言葉に唖然としたのを、今でもはっきりと覚えています。結果として高校受験をせずに、昭和46年4月5日に横須賀へ旅立ちました。先生に相談に行ったのに突き放されたと思っていましたが、よく考えてみればその一言で吹っ切れたのだと思います。言わば中途半端な私の背中をポンと押してくれたのです。あのまま高校を受験していたら、友達の多い地元の高校に進んでいたかもしれません。今となっては、先生には感謝の気持ちでいっぱいです。いつかこのことを伝えたかったのですが、残念ながら叶いませんでした。

私は多くの人たちに巡り会い、育てられました。すべての人たちに感謝です。

2025新年拝賀式 社長挨拶

皆さん、改めて明けましておめでとうございます。2025年、令和7年、昭和100年がスタートしました。

1月1日の日経新聞の一面トップに「備えよ日本」という言葉が大きく載っていました。アメリカのトランプ次期大統領は「アメリカ第一主義」を掲げ第二期政権をスタートさせます。アメリカ国内だけでなく日本に与える影響も大きいと考えます。また、中東問題、ウクライナ戦争、米中対立など国際社会は大きな変革期にいます。国内に目を向けると、自民党が少数与党となり野党の同意を必要とする政権となりました。そして「物価高騰」と「円安」が日本経済を苦しめています。

地方の中小企業といえども、国際社会の変化の荒波を受ける時代となりました。「備えよ日本」、その言葉は「備えよ寺崎工業」と言い換えられると思います。今年は例年にも増して慎重に行動する必要があります。そして当社は「出入りの大工」と「ファンを増やす」、この二つの品質方針に徹していかなければなりません。きめ細かな行動と配慮を心がけた営業、そして地縁・血縁を生かした「全社営業」で切れ目ない受注を目指し、お客様に満足してもらえる施工に努め、一歩一歩着実に歩んでいくことが大切だと考えます。

昨年は当社に7名の新しい仲間が加わり、総勢51名で創業102年目を迎えました。みんなで中身のあるGOODな会社づくりをしていきましょう。「いい年」とは会社の利益が出て皆さんに還元でき、無事故で、皆さんとその家族が元気で過ごせる年です。みんなでつくりあげましょう。

父のメガネ

今年も師走を迎え、気ぜわしい日々を過ごしています。年末の大掃除で父の遺品を整理していたところ、見覚えのある「メガネ」が出てきました。確かに父はこのメガネをかけて出勤していました。父は人生の苦楽をこのメガネを通して見て、日々を過ごしていたのでしょう。年代物ですがフレームはしっかりしていたため、レンズを入れ替えて、老眼鏡として私が使うことにしました。

先日、レンズの入れ替えを依頼したメガネ屋さんから「仕上りました」と連絡がありました。早速店へ行き、出来上がったばかりのメガネをかけて鏡を見ていると、父の顔が思い浮かびました。このメガネは、父とどんな経験をし、どんなモノを見てきたのか。感慨深いものがあります。

改めてかけてみますと、レンズのサイズが大きくて見やすい。実用的でオヤジらしいメガネです。「オヤジ、使ってるぞ!周りをよく見て行動するぞ!」心の中でつぶやきました。父と行動を共にしている感じがします。大事に、大事に、使っていくつもりです。

株主総会を終えて

昨日、当社の第81期株主総会がありました。総会には株主のほか、当社の役員および副部長以上の社員が出席します。会社の状況を知らせる意味で、毎年社員にも出席してもらっています。今期もいろいろなことがありましたが、決算の数字上でみるとまずまずの期でした。

突然ですが、新幹線はなぜ速いか?答えは全車両に駆動があるからです。在来線は一部の駆動車がほかの車両を引っ張っているため、スピードは出ません。会社も同じです。全社員が同じ方向を向いて前に進んでこそ会社の勢いが出ます。それぞれの役職の責任を果たしてこそ、真の目的が達成されます。誰一人として遊んでいるわけにはいきません。当社は「出入りの大工の姿勢」をモットーにしており、全社員がその思いを持って仕事に打ち込んでいます。地鎮祭に着る「印半纏(しるしばんてん)」はその気構えを表しています。来期もその意気込みで仕事をしていきます。

今回の総会で、息子が新たに役員(専務)に就任しました。昨年グループの100周年の行事を終え、今年で101年目を迎えています。そろそろ次のことを考える時期が来ました。新しい発想で会社経営を考えてもらいたいと思います。しかし、私もまだまだ走り続けるつもりです。

「走り」といえば11月3日の富山マラソンで、当社の社員6名が走りました。それも寺崎工業のTシャツをデザインして作成し、それを着て走ってくれました。うれしい限りです。後日行われた慰労会に私も出席し、労をねぎらい一緒に美酒を呑みました。その参加者のひとりが突然上着を脱いだと思ったら、下にそのTシャツを着ており、爆笑の渦に包まれました。とても楽しいひと時でした。

先日、鹿児島で開催された同期会に参加し、帰りにも熊本で同期生と会う3泊4日の旅をしてきました。交通手段は飛行機か新幹線かで迷いましたが、帰りは熊本に寄ること、飛行機なら羽田-富山便が夕方しかないことを考え、行きは鹿児島まで約8時間、帰りは熊本から約7時間の新幹線の旅を選択しました。

九州トナカイ(少年工科学校17期生の会)は毎年開催されていますが、今回は全国からも同期が集まって約50名の同期会となりました。九州以外では北海道・茨城・埼玉・京都・兵庫そして富山の同期が加わり、懇親会とゴルフが行われました。

卒業から50年、美少年で筋骨隆々だった同期が、今や腹が出て髪も薄くなり、見る影もないオジサンに変身、しかし、心は50年前に戻り、顔のしわから50年前の面影を探し出し、笑顔で再会できた喜びを分かち合い、家族や欠席の同期の消息等々、話が尽きない楽しい時間を過ごしました。当時の号令での生活が、今では全員が自衛隊を卒業し、第二の就職か悠々自適の生活、それぞれの道を歩いています。しかし、根底にはあの生活で得た「力」と「絆」を忘れてはいません。それが再会によって、また復活。とても貴重な時間でした。

帰りには鹿児島に来られなかった熊本の同期との食事会。4日間、観光は一つもない旅でしたが、私にとっては有意義な旅となりました。

帰りの新幹線で広島から一人の外国人青年が私の横に座りました。目が合うと微笑み返してくれたのですが、その目力や体格から、もしかして「軍」関係では?と思い、勇気を出して話しかけてみました。知っている限りの単語を使い、どこから?どこへ?仕事は?から会話を始め、私が自分の職業や出身地などを話し、陸上自衛隊(Ground Self‐Defense Force)にいたことも言いました。途中からは恥も外聞もなくスマホの翻訳機能を使い、声で日本語から英語に変換する機能で会話を広げました。何とカナダ軍の偵察隊にいたことがわかりました。彼に私の直感が当たったことを言うと笑顔で喜んでいました。現在は電気技術者として衛星の組み立てをしており、今回は3週間の日本旅行中とのことでした。今度は北海道に行きたいとも言っていました。私は「日本では旅行で三週間も休んだら会社の机が無くなる」と言って会話を楽しみました。広島から新大阪までの時間がとても短く感じられる充実したひと時でした。最後に握手をして「Have a nice day!」と言って別れました。彼は「ケーレイ」をしてくれました。それが自然でカッコよく、人柄も表していました。もっと英語を学んでおけばよかったなーと思った旅でもありました。