新入社員

早いもので4月を迎え、我が社にも2名の新入社員が入ってくれました。

4月1日に入社式を行いました。私がそこで話したことは、1.親に感謝する 2.しっかり挨拶する 3.わからなければ聞く 4.安全の確保、の4つです。

具体的には、初任給で親にご馳走を、挨拶はコミュニケーションの基本、質問することで理解が深まり知識となる、安全はすべてに優先する。社会人としてスタートを切る今こそ、習慣として身に付けてほしい項目を言いました。

私の経験談も話しました。「新入社員時代に厳しい先輩がおられ、その人と毎朝顔を合わせるのが嫌で仕方がなかったが、結果的にその人のおかげで一人前になれたと思えたし、最終的には一番親しい間柄になった」という話です。出会いの中で人は育てられると思います。

そして「経験を通して『知識』を『知恵』に変えていくことが求められる」、「人に平等に与えられたのは24時間という時間だけ」という話で締めくくりました。少しずつでいいからしっかりと知恵を身につけて、限られた時間を有効に使ってもらいたいと思います。

昨年末に自宅の神棚を掃除していると、今から53年前の昭和46年に私が送った1万円札の入った現金書留を発見しました。親が神棚に上げそのままになっていたものです。封筒には「寺﨑敏夫様」。私の汚い字でしたが心を込めて書いてあり、新鮮に感じました。たしか初任給が23,800円だったと思います。初めての給料の仕送りを親がどんな思いで受け取ってくれたのか、ほのぼのとした思いを感じました。   

除雪車

この冬は「暖冬」になるといわれていましたが、その通り雪の少ない冬でした。私の除雪出動回数は2回。例年4~5回ある中、少なかったといえます。

除雪用に新車で買った小型タイヤショベルに乗って3シーズンになります。関連法人の保育園2ヵ所と寺崎工業の駐車場を主に除雪しています。もちろんボランティアです。「小型車両系建設機械」の特別教育を受けて資格をもらったのですが、最初はおっかなびっくり!除雪したつもりが後ろを見たら真っ白で、雪を押し潰していただけだったという時もありました。また、顔見知りの町内なので「ちょっとお願いします」と言われると断れないこともあります。時には苦情を言われることもあり、県や市の除雪活動に出ている方々の苦労をひしひしと感じました。

今シーズンも無事に終わり、ほっとしています。今週末にはタイヤショベルを倉庫にしまう予定です。グリスアップを終え、油で車体を拭き、ブルーシートで覆って、来シーズンまで休んでもらいます。やはり買ったものは愛着が湧きます。これからも大切に乗ります。

大阪出張で考えたこと

3月に入りました。今年初めて大阪へ出張し、グループ会社の得意先を廻ってきました。夜は大阪の中心部ミナミで泊まり、久しぶりに知人と会って吞みました。平日の17時過ぎでしたが、道頓堀や心斎橋界隈の人の多さに驚きました。外国人が仲間と大きな声でしゃべりながら、いたるところで座って飲食し、日本人は肩身を狭しくして道路の隅を歩いているように見えました。コロナ禍が過ぎたとはいえ、雑踏ではマスクが必要だと感じました。

約30年前、多くの日本人が東南アジアへ遊びに行った時代がありました。今はその逆で、「円安」で日本に来やすい状況になっています。言い方を変えれば「日本が貧乏になった」と私は思っています。いま日本は研修生として外国人を受け入れていますが、このままでは海外への日本人の出稼ぎが盛んになると思います。 熊本では台湾企業のTSMCの半導体工場が稼働しました。これも円安がもたらしたものといえるでしょう。ここでつくられた半導体はソニーの製品にも使われるということです。「貿易立国」の日本が魅力ある製品をつくり、世界に輸出され、再び豊かな「経済大国」になってもらいたいものです。

和倉温泉のいま

先日、和倉温泉の旅館へ地震のお見舞いに行ってきました。年に数回ですが、その旅館で楽しいひと時を過ごさせていただいている関係から、今回の震災が他人事とは思えず行ってきた次第です。地震から二ヶ月も経つと、七尾までの道は普段と変わらない車の量でスムーズに行くことができました。しかし、和倉温泉駅前の道を右に曲がってからは状況が一変。車の数もめっきり減り、ひっそりとした温泉街になっていました。どの旅館も外壁のひび割れやガラスの破損など被災の跡を残し、小雪の舞う中、寒さが一層身に染みました。

「せっかく来たんだから中を見ていってください」と言われ、ヘルメットを被り懐中電灯を照らしながら一階を見せてもらいました。エレベーターホールの吹き抜けから落下したタイルが散乱し、厚いガラスが割れ、水(海水)の溜まっているところもありました。あの賑やかで活気のあるホールやお土産通りが、薄暗くてモノが散乱している光景になっているのを見て、目をそらしたくなりました。

1月1日は満館だったそうです。そのお客さんを誰ひとりケガさせずに避難させることができた。ここにも一流といわれる訳があると思います。また避難所での炊き出し、毛布や布団の提供もいち早く行っておられ、さすが一流旅館だと感じました。事実を淡々と受け止め真っ直ぐに復興への道を歩んで行かれるものと信じています。楽しく笑顔あふれる温泉街が再開することを信じ、その時はまた大いに利用させてもらいたいと思っています。

復興支援と災害対策

先日の連休に「道の駅 氷見」へ行ってきました。能登半島地震による断水や液状化の被害がありましたが、現在は全店舗が営業しています。復興支援のイベントも行われており、多くの県外ナンバーも見かけました。家族連れや観光客が行き交い、活気にあふれていました。

昨日のニュースで、日本赤十字社が被災地での医療救護活動を終了すると報道されていました。今では支援活動も、避難所から仮設住宅や被害を受けた住宅への対応に移っています。富山県建設業協会も各支部で班をつくり、被災地へ赴いて復旧活動を行っていましたが、今後は本格的な復旧工事(土木工事や解体工事)が求められてくるものと思われます。

弊社も地震直後は炊き出しの食料などを被災地に送り、その後もグループ各社で義援金やふるさと納税などの支援をしています。また得意先の建物についても、被害調査から復旧工事に向けて動いているところです。日々刻々と支援の在り方が変わってきていると感じます。

県内を見ると、被害が大きかったのは地盤が弱いところのようでした。改めて「地盤の良いところ」が求められると思います。土地を買うときは切土なのか盛土なのか、かつては沼だったのか池だったのか、その土地の長老に聞いてから行動に移せといいます。地盤のしっかりした場所選び、地盤改良工事の必要性の有無、耐震を考えた設計など、今まで以上に考えていく必要があります。

弊社も今回の地震を踏まえ、改めて緊急災害時の対策を考えていきます。まず「安否確認」システムをグループ各社に導入します。大地震などの災害発生後、社員に一斉発信し安否の確認をします。そして、富山と高岡に災害時の拠点をつくります。とりあえず携帯用の「水タンク」と段ボール製の「簡易トイレ」を100個ずつ、それぞれの拠点に用意しました。これからも緊急時に役立つ防災用品を充実させていきます。

もう少し先になると思いますが、能登の観光地を巡り、和倉温泉に宿泊し、復興支援に少しでも協力できればと考えています。近い将来に会社の慰安旅行で、和倉の湯と復興の美酒を楽しめる日が来ることを信じています。

能登半島地震に思うこと

令和6年1月1日16時10分、能登半島地震が起きました。最大震度7の大地震は、私の大好きな風光明媚の地を一変させました。輪島の朝市通りは、千枚田は、時国家は、皆月海岸は、和倉温泉は・・・。ニュースで変わり果てた景色を見て、やり場のない思いに駆られています。

被災した社員や関係者には会社所有のアパートへの入居を勧め、地域にはグループ会社で義援金や物資を提供する段取りをしました。和倉の知人にも早々にお見舞いしたいと考えていますが、何をすれば良いのか、はやる心と先方の「気持ちだけで嬉しい」という言葉に翻弄される日々を送っています。

先日、会合の挨拶で「新年おめでとうございます」と言っている方がおられましたが、今年は新年の挨拶に「おめでとう」は使えないと個人的に思っています。地震から1カ月が経ち、少しずつ復旧に向けた動きが進んでいます。「能登は必ず立ち直る」。復活を心から信じています。

富山には「立山が屏風のように富山を守ってくれているから自然災害が少ない」という神話があります。私もそう思い込んでいました。しかし今回の地震は、富山県内でも震度5強を観測しました。自然災害に対する取り組みを、改めて考える時が来たと感じています。

地震当日の話ですが、高岡は港町伏木が大きな被害を受けました。伏木在住のグループ会社社員は、山手にある総合病院の駐車場に避難しましたが、夜になってホテルを探すことにしたそうです。高岡市内にある数軒のホテルに電話しましたが、すべて断られてしまいました。エレベーターの停止や客室の物品の倒壊が主な理由(あとから知った)でしたが、射水市(旧小杉町)のホテルは受け入れてくれました。そのホテルもエレベーターは止まり、多少の被害もありましたが、暖房が効き入浴もできました。そして「夜食にどうぞ」とお寿司まで用意してあり、温かい思いやりに感動したそうです。後日エレベーターは復旧しましたが、ある程度の揺れが収まるまで、結局5泊しました。フロントに宿泊料を払おうとしたら、何と「宿泊料はいりません」と言われたそうです。大手チェーンのホテルですが、そのホテルの従業員たちで決め、本部からの指示ではなかったとのことでした。

なかなかできることではありません。素晴らしい決断と柔軟な対応に、心より敬意を表します。この話を聞いて、私はその系列のホテルをぜひ利用したい、人にも勧めたいと思った次第です。

新年を迎えて

新年の挨拶は「おめでとうございます」から始まるのが一般的ですが、今年は「おめでとう」とは言えない状況です。元日の夕刻に最大震度7の能登半島地震が発生、2日には羽田空港で飛行機の衝突事故が起き「今年はどんな年になるのだろう?」と思われた方も多いのではないでしょうか。例年にも増して用心が必要だと感じます。今回の地震で当社の社員および関係者に怪我等の報告がなかったことは不幸中の幸いでしたが、テレビや新聞等では時間とともに悲惨な被害状況が明らかになり、亡くなられた方も増えています。能登の方々の大変さが、近いからこそ、ひしひしと伝わってきます。地震の少ない富山県においても、氷見や伏木などで大きな被害がありました。改めて被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

私も元日の地震からその対応と後片付けに追われ、お正月モードは一掃されました。そんな中、嬉しかったことがあります。3日の朝、得意先から私の携帯電話に連絡があり「元日の地震で展示場の大きなガラスが割れ、寺崎工業に緊急の対応をお願いしたところ、翌日早々に来られてガラスを撤去した後シートを張っていただいた。迅速で丁寧な対応、ありがとうございました。」と感謝の言葉をいただきました。

ほかにも地震発生後、得意先や事務所を見回ってくれた社員、現場パトロールに出てくれた社員、関連の介護施設ケアホームみどりの被害復旧を手伝ってくれた社員たちの自発的な行動には本当に感謝しています。今もなお余震が続いていますが、今回の能登半島地震の対応で得た教訓を、会社でも家庭でもしっかりと活かしていかなければならないと考えます。

さて、昨年は建設資材の高騰で一時的に建設投資は減退したように感じましたが、コロナ明けでの建設需要の拡大が少しずつ感じられるようになりました。我々の仕事はフェイスtoフェイスの対応が求められます。私は「情報は動いた量に比例する」と考えています。今年、営業は設計事務所や得意先への訪問を増やし、現場においても得意先をはじめ協力会社の方々との接触を増やしていきたいと思います。寺崎工業の姿勢を語り、多くの「寺崎工業ファン」をつくりたいです。

今年も建設資材の値上げが予想され、資材不足や納期遅れも心配されます。また大阪万博の建設が最盛期を迎えます。そして今回の能登半島地震、建設業界にどのような影響を及ぼすのか、いろいろと情報を集めながらしっかりと対応していきたいと思っています。

「一番強いもの、一番賢いものが生き残るのではなく、機敏に変化できたものこそ生き残る」ダーウィンの進化論の言葉ですが、今年101年を迎えた当社も「変化」してきたからこそ生き残ってきたといえます。これからも昨日より今日、今日より明日、日々会社を進化させていきます。機敏に変化できるのが中小企業の良さだと考えます。

「いい年とは、会社の利益を皆さんに還元でき、皆さんとその家族が元気に過ごせる年」といつも私は社員に言っています。全社員で努力していい年にしたいと思います。

狸おやじ

大河ドラマ「どうする家康」も佳境を迎えています。小国・三河で生まれ、大国の織田家・今川家のもとで人質として過ごしたのち、熾烈な戦国時代の中、いろいろと迷いながらも決断を下し、家臣団とともに成長していく家康の姿に共感しながら観ています。悩みと不安の人質時代、信長との連合軍の時代、秀吉の安土桃山時代、補佐役から天下統一までの時代。純粋な若者から一癖も二癖もある「狸おやじ」へと変わっていく家康役の松本潤さん、話し方や仕草まで上手く表現できており感心しています。最近の放送では天下人としてのおおらかさとわがままさも感じさせる内容になっています。12月の終わりをどのように迎えるのか楽しみです。

戦国乱世の時代、利害や宗教に翻弄されながらも小さな家臣団をまとめ、周りの武将を味方にしていく姿は、現在の会社という組織をまとめ、周りに自社のファンをつくることに通じるものがたくさんあると思います。その一つに相手の顔を見て話をすることの大切さがあると考えます。また私は褒める時は大勢の前で、指導する時は一対一でということも常に心掛けています。

そして「狸おやじ」。さまざまな経験を積むことで得た知恵を生かし、状況に応じて柔軟に事を進める。時には一歩引いて状況を見つめ、冷静に判断する。発する言葉には重みがあり将来を見通す力もあり、会う人たちを委縮させたものと思います。その一方で優しさも兼ね備えていたことでしょう。

私はそんな「狸おやじ」に憧れます。私の性格からすると、思い立ったらすぐに「自ら動く」ことが多いのですが、最近は一歩立ち止まって冷静に考えてみることも必要だと思っています。まだまだ修行が足りません。

一冊の本

創業者、祖父治作の出生地にある射水市立大島小学校で創立150周年式典が行われ、来賓の一人として参列してきました。今から120年ほど前の話ですが、少年時代の治作はこの小学校の校務員だった父の手伝いをすることがよくありました。そんなある日、治作は図書室で一冊の本と出会います。それは当時の日本ではまだ珍しかったコンクリート建築について書かれたもので、治作はこの本をきっかけにコンクリート建築に興味を持ち、夜の海を照らす灯台の建設技術者となりました。その後、樺太の地で当社の前身「寺﨑組」を創業、そして「寺崎工業」は今年創業100周年を迎えました。

一冊の本が人生を変えました。戦後、治作はそのご縁に感謝して大島小学校に本を毎月寄贈し続けました。そして二代目の父敏夫もその大切な思いを受け継ぎ、本を贈り続けました。治作は母「梅野きよ」の名義で本を寄贈していたため、小学校では「寺崎文庫」ではなく、今でも「梅野文庫」として扱われています。親孝行の心、故郷への感謝、寄贈の継続、どれをとってもなかなか真似できるものではありません。

昨年、一区切りを付けるための寄付をさせていただき、本と図書室の整備充実に充ててもらいました。そして今回、図書室と寄贈した本を見せてもらいました。本には「梅野文庫」のシールが貼られており、大切に管理されていました。いくつになっても図書室は魅力的なところです。私でも読みたい本がたくさんありました。子供たちもいろんな本に興味を持ってくれたら嬉しいです。図書室の入口には、この「梅野文庫」の由来について掲示してありました。一冊の本には人生を変える力があること、そして寺崎グループのことも書いてありました。三代目の私のインタビューと写真もその中にありました。無口で怖かった祖父の違う一面、優しい温かさを感じました。私は有り難さと責任の重さをひしひしと感じた次第です。

組織は時代と共に変わるべき

先日、母校の同期会が横須賀で開催されました。陸上自衛隊「少年工科学校」。現在は「高等工科学校」に名称変更していますが、別名「自衛隊生徒」。私の原点がここにあります。52年前の昭和46年に中学卒業後、17期生として入隊と入校、今は存在しない階級「3等陸士」としてスタートしました。当時は4年制で入校500名に対して卒業したのは400名余り、決して楽な学校ではありません。しかし、この4年間で経験したことは一生の宝です。今回は全国から、髪の毛が薄くなったり白くなったりした、ぽっこりお腹の約100名の同期が集まって呑み、語り、校歌を歌いました。翌日には学校見学もしてきました。

10年ほど前、幹部自衛官になった同期と呑んでいる時に「優秀な人材を輩出しているのに何で学校名を変えるのか。」と文句を言ったことがあります。それに対し同期はさらりと答えました。「組織は時代と共に変わるべき、国を守る組織だからこそ変化していかねばならない。」私はこの言葉を聞いて、酒の酔いが冷めていったことを覚えています。

高等工科学校はまた大きく変わろうとしています。現在1学年320名余りの生徒数を増員して、卒業後は陸上自衛隊のほか海上・航空自衛隊にも進むことになり、男女共学にもなります。はつらつとした高等工科学校の卒業生を欲しいのは陸・海・空とも同じだと思います。しかし同じ自衛官でも私は気質の違いを感じます。男女共学についても賛否両論ありますが、「国を守る」ためには陸上自衛隊だけのことを考えていてもダメなのかもしれません。「組織は時代と共に変わるべき」。卒業生が連携し、陸・海・空の部隊を支える自衛官として新しい「自衛隊生徒」制度を作ってもらいたいと思います。

会社も「日々新た」。昨日から今日、今日から明日へと変化していかねばなりません。同じ仕事の繰り返しでは進化はありません。「昔からこの方法でやっているから」というのではなく、変化を恐れずに進化し続けていきたいと考えます。

話は戻って、母校のことで心配なのは校歌の中の「我等は少年自衛隊」という歌詞、共学になったらどうなるのやら?