立川志の輔師匠

今年の夏は、例年にも増して猛暑が続いています。パリオリンピックでの日本選手の活躍が連日連夜報道され、高校野球の熱戦も甲子園で始まりました。また近年は「線状降水帯」という言葉が頻繁に使われるようになり、日本も亜熱帯化しつつあります。皆さんもご健康に留意され、この暑くて熱い夏を乗り切っていただきたいと思います。

昨年夏に寺崎グループ100周年記念行事として、立川志の輔師匠の落語公演会を開催しました。おかげさまで大盛況でした。それから私は志の輔師匠の落語をすすんで聴くようにしています。また「志の輔ラジオ 落語DEデート(KNBラジオ毎週土曜9時~)」という番組で寺崎工業のCMを出していますので、皆さんも是非お聴きください。

先日も県民会館で行われた志の輔師匠の公演会に行ってきました。師匠は自ら多くの「新作落語」を創作しているほか、「古典落語」にも演劇的要素を取り入れて現代に通じるようにアレンジするなど、誰もがその才能を認める偉大な落語家です。今回も江戸時代、独創的な歌舞伎で名を成した実在の人物「中村仲蔵」の落語を聴かせていただきました。師匠は「一人三役」の巧みな語り口で、私たちの頭の中に物語のイメージを膨らませていきます。人生の喜怒哀楽、そして生きざま、あたかもそこに人物がいるかのように引き込まれていきます。飽きることのない時間でした。

公演終了後、「勝駒」を持って楽屋に挨拶に行ってきました。師匠も寺崎工業が番組のラジオCMを出していること知っておられました。いろいろなご縁を大切にしていきたいと考えています。

さて、今年もお盆を迎えます。社員には夏季休暇に入る前に「『出入りの大工』の姿勢を忘れれずに、各現場の整理整頓・休み明けの仕事の段取り・お客様への挨拶を確実に行ってください」と伝えてあります。

誠に勝手ながら、弊社の夏季休暇は8月15日(木)~ 8月18日(日)とさせていただきます。ご不便をおかけしますが、何卒ご理解のほどお願い申し上げます。

地鎮祭

「地鎮祭」はその土地の氏神様に工事開始の報告と安全を祈願する儀式であり、工事の第一歩を踏み出す大切な瞬間です。施主様にとっては、苦労して計画をまとめて、いよいよ工事に着手する大切なスタートライン。当社は地鎮祭の設営や進行、施主様への配慮など、完璧はありませんが、都度見直しを行って最高の「地鎮祭」を追求しています。

私を含め当社の社員は、地鎮祭で「寺崎工業の印半纏(しるしばんてん)」を着用します。印半纏で「出入りの大工」を表し、その建物がある限りメンテナンスをさせていただきます。「出入りの大工」はお客様の表玄関から入らずに勝手口から入ります。お客様とは日頃のお付き合いも大切にし、おめでたいことや悲しいことを共に感じられる関係でありたいという意識を全社員で共有し、日々の仕事に取り組んでいます。

その「地鎮祭」が今日、行われました。炎天下でしたが、幸いにも時折りやさしい風が吹いていました。手前味噌ですが、今日の地鎮祭は神主様・施主様としっかりと打合せができていると感じました。

「地鎮祭の前まで晴れていて、式の間だけ雨が降って、終わった後また晴れてくるのが地鎮祭として一番いい」と父から聞いたことがあります。その完成した建物からは火が出ないと言っていました。私もそのような天気の地鎮祭を何度か経験したことがあります。もちろん、天気で全てが決まることはありませんし、地鎮祭は吉日を選んで行われます。

話は戻って今日、玉串奉奠の儀式で、施主様の社長が施工者の代表である私に頭を下げられました。恐縮した私は、座ったままですが姿勢を正してお辞儀しました。続く施主様の社員10名余りの方々も全員、同じように私に頭を下げられました。私にとっては「恐縮至極」の出来事でした。

式が終わった後の車の中で、「社員は社長の行動の真似をする」ということを考えました。良いこともそうですが、悪いことも真似をすると考えると、これは怖いことだと思いました。改めて「社長としての行動」について見直そうと思った次第です。

映画

先週、久しぶりに一人で映画館に行ってきました。

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。今から55年前、アメリカが人類初の月面着陸に威信をかけて望んだアポロ計画の舞台裏をNASAの協力も得て描き、計画が失敗した時のためのフェイク映像まで作ってしまう物語です。コメディ要素もあり、恋愛物語でもあり、上映時間132分、睡魔に襲われることはありませんでした。面白かったです。しかし、劇場の観客は3人。夏休みに入った平日の17時過ぎでしたが、これで採算が取れるのかと少し心配になりました。

小学生の頃から映画が好きでした。加山雄三の「若大将シリーズ」や「モスラ対ゴジラ」などの怪獣映画を観て育ちました。一日で映画館を二軒廻ったこともあります。当時は娯楽の殿堂であり、休日の映画館は常に大入りでした。

中でも一番印象に残っているのは「ひまわり」。中学三年の時、私が自衛隊の少年工科学校に入学する前に観ました。ソフィア・ローレン主演のイタリア映画で、戦争によって引き裂かれた夫婦の物語です。第二次世界大戦中のウクライナを舞台に、冬の凍る大地と夏の明るいひまわり畑を人生に置き換えて映像化してあります。そして物悲しいヘンリー・マンシーニのテーマ曲。今でもこの曲を聴くたびに涙が出そうになります。私にとって生涯忘れることのない名作です。この映画を観て、自衛隊に入るのをためらったことを覚えています。

いやぁ、映画って本当にいいもんですね~。これからもジャンルにとらわれず、いろいろな映画を観ていきたいと思っています。

富岡鉄斎

7月に入り今年も半分が過ぎました。1月1日の能登地震以来、富山の安全神話も考え直す時が来ています。災害はどこでも起こりうるものであり、日頃からその対応について考え、行動することの大切さを痛感しています。

この地震で被害を受けた我が家の「蔵」も、先日からやっと修理が始まりました。土壁が一面崩れ落ち、ひび割れも至る所に発生し、北陸特有の湿気から建物を守る「置き屋根」も傾くなど、重傷でした。登ってみるとシロアリの被害も見られました。建てられてから70年以上経つ蔵ですが、時間をかけて直すつもりです。

さて、今日は富山県水墨美術館での企画展「没後100年・富岡鉄斎」の開会式に行ってきました。実は私、昨年から富山県文化振興財団の理事を拝命しています。富山県高岡文化ホールの「音楽友の会」の役員である関係から選ばれたわけですが、昨年、ある企画展に出向いたときにその理事長から「寺﨑さん、わからんでもいいから、いいもの見とかれ。」と一言いわれました。それからは県内のミュージアムで開催される企画展などに、できる限り足を運ぶようにしています。

今回の「富岡鉄斎」、何となく名前は聞いたことがあり、絵描きだと思っていました。学芸員さんの解説を聞いたところ、儒教学者であり文化人であり、詩と書と絵師の顔を持つ方であったことを初めて知りました。幕末から大正時代を生きた「文人画家」といわれる巨匠です。北海道のアイヌの生活習慣を描いた書画や、日本各地を旅して風光明媚な場所をスケッチ(?)したような作品もありました。

展示品には「落款印」も大量に展示してありました。その書画にふさわしい印を選んで押してあるそうですが、私は「錬」という漢字が多いように感じました。なぜだろうと思って調べたところ、「錬」とは金属や心身・技芸をねりきたえることで、「錬金」「錬成」などと使われていました。「勉学への思いは常に持て」と私なりに理解しました。

富岡鉄斎は大正13年(1924)12月31日に89歳で亡くなっていますが、最後の書画も展示してありました。亡くなる一週間前のもので、書には「老いて益々学ぶ」と書いてありました。あっぱれとしか言えません。

田んぼ

昨日、先祖伝来の「田んぼ」を2枚売りました。

散々迷ったのですが、決断した理由は「多くの方々の役に立つ」ことでした。それならばと腹を決めました。

父は祖父から受け継いだ田んぼを20年の納税猶予をして耕作を続けました。それを私が受け継ぎ「この地、中川で一番きれいな田んぼにしよう」と意気込んで管理をしてきました。機械が必要な荒起こし・代掻き・田植え・溝切り・稲刈りなどは農協のアグリサポートに頼んで、私は水の管理・雑草取り・肥料散布などの作業を中心に行っていました。機械での田植え後に苗が抜けているところを手で植えたり、街で呑んだ後の深夜に懐中電灯を持って田んぼの水を見に行ったり、真夏の炎天下に長袖・長靴・帽子にサングラス姿でぬかるんだ田んぼに入って雑草取りをしたり・・・。決して楽な作業ではありませんでしたが、田植えから稲刈りまで、苗が風にそよぎ、緑の絨毯になってすくすくと育ち、やがて黄金色の絨毯へと変わり、頭(こうべ)を垂れる稲穂の姿になるまで楽しみました。手をかけたら、その分返ってくるのが田んぼの魅力です。

耕作する田んぼは無くなりましたが、この中川には農家の集まりの生産組合があります。いざらい・草刈り・用水の草上げなどを行っていますが、これには今まで通り参加するつもりです。近年は高齢化と担い手不足に悩まされていますが、地域農家の一員として、汗をかいて農業を守って行きたいと考えています。

余談ですが、毎年新米が取れるとすぐに分家や親戚に配ります。分家は美味しい!と秋の味覚を楽しんでいますが、本家は古米が無くなるまで食べられません。本家の我が家は年末にやっと新米の味を噛みしめます。

懇親会とエンゲル係数とガラパゴス

先日、ある講演会の後に開催された懇親会に参加しました。70名あまりの出席者でしたが、コロナも落ち着きマスク姿も少なくなった中、久しぶりの集まりということで、皆さん楽しそうに笑顔で歓談しておられました。

私も久しぶりに席を立って注ぎにまわり、たくさんの方々と意見交換をしました。先ほどの講演会のこと、これからの景気のこと、M&Aのこと、ゴルフのこと・・・。話題は尽きず、2時間余りの懇親会が、あっという間でした。

今はオンライン配信やWeb会議が普及していますが、やはり実際に会って、名刺交換をして対話することで、お互いが共感し、心が躍り、距離感が縮まっていく「フェイスtoフェイス」の大切さを強く感じました。

懇親会の挨拶で「日本のエンゲル係数が高くなった」という話がありました。家計の消費支出に占める食費の割合を示す「エンゲル係数」が2023年は27.8%に達し、40年ぶりの高水準となったそうです。おそらく今年はさらに高くなるものと思います。

全体の消費支出が減り、円安等で食品の値上げ割合も増えているとのことですが、貧しい国ほどこの係数は高いといわれています。世界有数の豊かな国といわれた日本が、今は海外からのインバウンドで割安の観光地になっているというのも、何とも皮肉な話です。

前にもブログで書きましたが、熊本では台湾の半導体企業が進出し、工場が稼働しました。更にその規模を拡大しようとしており、地元の知事もかなり協力的です。もし富山にこのような工場が来たらどうでしょうか?私は賛成!とは言えません。地域の中小企業の基盤を覆すこととなるかも知れません。中小企業を含めた国内での循環経済が最優先ではないかと思います。

あらゆる分野でグローバル化が進められていく風潮にも、時々違和感を覚えます。私の個人的見解ですが、日本は「ガラパゴス」のままでもいいのではないかと思っています。否定的な意味合いで使われる「ガラパゴス」ですが、日本の文化や社会の価値観に根差してつくられたモノは昨今、国内だけでなく世界中から改めて評価されているようです。

安全保障面から見ても海外に頼りすぎるのはいかがなものかと思いますし、日本の「動脈」となるものは国内で完結する循環をつくるのが理想だと考えます。・・・少し脱線してしまいました。今回はこの辺で。単なるひとりごとでした。

新入社員

早いもので4月を迎え、我が社にも2名の新入社員が入ってくれました。

4月1日に入社式を行いました。私がそこで話したことは、1.親に感謝する 2.しっかり挨拶する 3.わからなければ聞く 4.安全の確保、の4つです。

具体的には、初任給で親にご馳走を、挨拶はコミュニケーションの基本、質問することで理解が深まり知識となる、安全はすべてに優先する。社会人としてスタートを切る今こそ、習慣として身に付けてほしい項目を言いました。

私の経験談も話しました。「新入社員時代に厳しい先輩がおられ、その人と毎朝顔を合わせるのが嫌で仕方がなかったが、結果的にその人のおかげで一人前になれたと思えたし、最終的には一番親しい間柄になった」という話です。出会いの中で人は育てられると思います。

そして「経験を通して『知識』を『知恵』に変えていくことが求められる」、「人に平等に与えられたのは24時間という時間だけ」という話で締めくくりました。少しずつでいいからしっかりと知恵を身につけて、限られた時間を有効に使ってもらいたいと思います。

昨年末に自宅の神棚を掃除していると、今から53年前の昭和46年に私が送った1万円札の入った現金書留を発見しました。親が神棚に上げそのままになっていたものです。封筒には「寺﨑敏夫様」。私の汚い字でしたが心を込めて書いてあり、新鮮に感じました。たしか初任給が23,800円だったと思います。初めての給料の仕送りを親がどんな思いで受け取ってくれたのか、ほのぼのとした思いを感じました。   

除雪車

この冬は「暖冬」になるといわれていましたが、その通り雪の少ない冬でした。私の除雪出動回数は2回。例年4~5回ある中、少なかったといえます。

除雪用に新車で買った小型タイヤショベルに乗って3シーズンになります。関連法人の保育園2ヵ所と寺崎工業の駐車場を主に除雪しています。もちろんボランティアです。「小型車両系建設機械」の特別教育を受けて資格をもらったのですが、最初はおっかなびっくり!除雪したつもりが後ろを見たら真っ白で、雪を押し潰していただけだったという時もありました。また、顔見知りの町内なので「ちょっとお願いします」と言われると断れないこともあります。時には苦情を言われることもあり、県や市の除雪活動に出ている方々の苦労をひしひしと感じました。

今シーズンも無事に終わり、ほっとしています。今週末にはタイヤショベルを倉庫にしまう予定です。グリスアップを終え、油で車体を拭き、ブルーシートで覆って、来シーズンまで休んでもらいます。やはり買ったものは愛着が湧きます。これからも大切に乗ります。

大阪出張で考えたこと

3月に入りました。今年初めて大阪へ出張し、グループ会社の得意先を廻ってきました。夜は大阪の中心部ミナミで泊まり、久しぶりに知人と会って吞みました。平日の17時過ぎでしたが、道頓堀や心斎橋界隈の人の多さに驚きました。外国人が仲間と大きな声でしゃべりながら、いたるところで座って飲食し、日本人は肩身を狭しくして道路の隅を歩いているように見えました。コロナ禍が過ぎたとはいえ、雑踏ではマスクが必要だと感じました。

約30年前、多くの日本人が東南アジアへ遊びに行った時代がありました。今はその逆で、「円安」で日本に来やすい状況になっています。言い方を変えれば「日本が貧乏になった」と私は思っています。いま日本は研修生として外国人を受け入れていますが、このままでは海外への日本人の出稼ぎが盛んになると思います。 熊本では台湾企業のTSMCの半導体工場が稼働しました。これも円安がもたらしたものといえるでしょう。ここでつくられた半導体はソニーの製品にも使われるということです。「貿易立国」の日本が魅力ある製品をつくり、世界に輸出され、再び豊かな「経済大国」になってもらいたいものです。

和倉温泉のいま

先日、和倉温泉の旅館へ地震のお見舞いに行ってきました。年に数回ですが、その旅館で楽しいひと時を過ごさせていただいている関係から、今回の震災が他人事とは思えず行ってきた次第です。地震から二ヶ月も経つと、七尾までの道は普段と変わらない車の量でスムーズに行くことができました。しかし、和倉温泉駅前の道を右に曲がってからは状況が一変。車の数もめっきり減り、ひっそりとした温泉街になっていました。どの旅館も外壁のひび割れやガラスの破損など被災の跡を残し、小雪の舞う中、寒さが一層身に染みました。

「せっかく来たんだから中を見ていってください」と言われ、ヘルメットを被り懐中電灯を照らしながら一階を見せてもらいました。エレベーターホールの吹き抜けから落下したタイルが散乱し、厚いガラスが割れ、水(海水)の溜まっているところもありました。あの賑やかで活気のあるホールやお土産通りが、薄暗くてモノが散乱している光景になっているのを見て、目をそらしたくなりました。

1月1日は満館だったそうです。そのお客さんを誰ひとりケガさせずに避難させることができた。ここにも一流といわれる訳があると思います。また避難所での炊き出し、毛布や布団の提供もいち早く行っておられ、さすが一流旅館だと感じました。事実を淡々と受け止め真っ直ぐに復興への道を歩んで行かれるものと信じています。楽しく笑顔あふれる温泉街が再開することを信じ、その時はまた大いに利用させてもらいたいと思っています。