長岡花火

8月2日土曜日、新潟県長岡市で開催された「長岡まつり大花火大会」に寺崎工業互親会(協力会)の方々と総勢24名で行ってきました。

互親会では年に一度、会員の親睦と研修を兼ねて旅行を計画・実行しています。昨年は航空自衛隊小松基地の航空祭に行ってきました。今年は春先からこの花火大会の見学を企画し、旅行代理店との打ち合わせを重ねてきました。行程は?バスは?観覧席は?昼食&夕食は?持ち物は?等々、ベストを目指して計画を組み立てました。

考え抜いた結果、花火大会の弾丸ツアーに。トイレ付きの大型バス、高速インター側のエリアで駐車場に近いイス席(「島」の最前列)、昼食(焼肉弁当)は出発時にバス積み込み、夕食(幕の内弁当)は花火会場の駐車場で受け取り、食事後に観覧席へ移動、渋滞と混雑が予想されるためアルコールや飲料水はできるだけ出発時に持っていく、そのためのクーラーボックスの用意など、いろんな知恵を絞って当日を迎えました。

当日はお昼の12時に出発。15時過ぎには長岡に着きましたが、お土産購入と時間調整を予定していた「道の駅」には満車で立ち寄れず。16時過ぎには花火会場の駐車場にバスを入れ、そこで18時半ごろまで待機することになりました。外は猛暑の中、エアコンの効いたバスの中での待機となりホッとしました。

19時20分開始。花火の大きさ・色・鮮やかさ・曲に合わせての打ち上げなど、信濃川の広大な河川敷だからこそ出来る大会だと感じました。直径650mの「正三尺玉」、打ち上げ幅2kmの「フェニックス」、圧巻でした。また、花火には表も裏もないと言いますが、どうでしょう。真上で開く大輪の花を、我々はポカンと口を開けて見入っていました。

21時10分終了まで、時間を忘れて約2万発の花火に酔うことが出来ました。しばらくの空白時間のあと暗闇の中、明かりを付けたスマホで花火師とのエールの交換、河川敷一面に光の輝きが現れて会場が一体となりました。

花火会場の駐車場から24時頃には出られたでしょうか、高岡には日曜日の午前3時頃に無事到着し、それぞれ家路につきました。高速道路のサービスエリアは深夜にもかかわらず営業を続けており、商魂のたくましさを感じました。

花火は「一瞬の芸術」であり、あざやかさとむなしさを感じます。消えかかる光に何とも言えない哀愁を感じます。そして日本人に生まれてよかったと感じます。

いや、今日4日は地元、庄川の花火大会。うちわ片手に缶ビールを吞みながら、家の屋上から見るか。「蚊」来るなぁ~

朝顔

朝顔が一輪、咲きました。

本社の正面玄関横、来客用駐車場側に毎年「朝顔」を植えています。そして今朝、青い朝顔が一輪咲きました。

私は朝顔が好きです。特に青色の花が大好きです。質素ながらも、朝になると満開の顔を見せてくれます。そして葉とつるの若々しい緑色、ふたつの色合いが涼しさを誘います。今年もそんな季節が来ました。

今年はいつもより開花が早いのかもしれません。これから一面に咲いて、来社されたお客様に楽しんでいただけるものと思います。

毎年のことですが、私たちの目を楽しませてくれた季節が終わると、種取り、枝の片付けを年末までに終え、春の連休に新しい土を足して再生させます。何代にも渡る種を使っていますが、最近は新しい種も入れるようにしています。

社員も連休明けの「種まき」や毎朝の「水やり」などのお世話をしてくれます。休みの日にも水をやりに来てくれていると聞きました。

みんなの協力があってこそ、長く続いている寺崎工業の「夏の癒し」です。

慰安旅行

二班に分かれて慰安旅行へ行ってきました。目的は「親睦」。行先については、まず皆が楽しめる所、そして皆があまり行っていない所にしようと思い、選んだのが広島県です。二泊三日で「尾道」「呉」「広島」とバスで巡る旅を考えました。また宿泊先は宴会後に二次会へ行きやすい立地のホテルを選びました。時期は暑くなる前に行きたいと6月の中旬と下旬に分けましたが、一班は梅雨真っ只中、二班は一転して真夏日の旅行となりました。

昨年は宇奈月温泉と長野の善光寺参り、このブログにも書きましたが大いに盛り上がりました。今回も出発日の朝、新高岡駅から北陸新幹線に乗車したところから盛り上がり、中にはビール6缶入りの保冷バッグを肌身離さず持ち歩く社員もいて、笑いの渦に包まれました。敦賀駅と新大阪駅で乗り換え、何とか誰も欠けることなく山陽新幹線の福山駅で降りることができました。「坂の町」尾道で山頂からの瀬戸内を展望し、牡蠣料理の昼食。北陸で牡蠣といえば冬の食材ですが、美味しくいただきました。呉に移動して大和ミュージアム(サテライト)・てつのくじら館を見学、旧呉鎮守府であり海上自衛隊の呉地方総監部所在地としての「歴史の重み」を感じました。残念ながら私は宴会後早々に自沈し、就寝訓練に移りました。(笑)

翌日は呉軍港のクルージング、空母に改修された「かが」や潜水艦5隻が泊まっている桟橋など、満席の観光船の屋上デッキから間近に見ることができました。昼食は江田島のリゾートでのBBQ、遠くに瀬戸内を行き交う船を見ながらの肉と海鮮と野菜とアルコールで満腹。そして夕食の懐石コースも「これでもかー」というほどのボリュームで、皆満足顔から体重心配顔になったのではないかと思います。それでも二次会で「広島焼き」を食べに行った社員もいたと聞きました。

翌早朝、私はホテルから原爆ドーム近辺を散歩しましたが、社員の中には10キロのランニングをしたというツワモノも。最終日は宮島口から10分の連絡船に乗り世界遺産の厳島神社・門前町を散策、灼熱の太陽の下で体重が戻ることを祈念し、ご利益のある参拝ができました。帰りは広島駅から山陽新幹線に乗車して、行きと逆の経路で。見学場所も食事内容も大変充実した慰安旅行になりました。

私は「同甘同苦」という言葉が好きです。「皆で助け合い苦難を乗り越え、美味しいものを食べる時も皆で一緒に」そういう会社でありたいと考えています。ただ3日間で3キロも体重が増えてしまいました!元に戻すのが大変です・・・。

「遺影」

先日、わが社の元役員が亡くなり、その葬儀に参列してきました。昭和23年に高校を卒業後すぐに寺崎工業へ「会計係」として入社、最終的には「専務取締役」としてわが社をリードしていただきました。約50年間にわたって勤務され平成9年に68歳で退職、そして今年、令和7年に96歳でその生涯を終えられました。寺崎工業一筋、経理・総務畑において組織の土台を支えていただきました。一度決めたら曲げるのが大っ嫌いという性格で、会社ではうるさい存在(良い意味で)ではなかったかと思います。

当日、祭壇に飾られた「遺影」を見ますと、わが社におられた頃の写真が使われていました。そして何とスーツの襟元には寺崎工業の「社章」が付いていました。帰り際、喪主に「在籍されていた時の写真ですね」と言ったところ「父は寺崎工業にいたことを誇りとしていました。この写真が一番父らしい写真だと思います」との返事をいただきました。嬉しく思い「ありがたいです」と返しました。

「遺影」に使う写真は、そこそこの歳になった時の写真を使うのが一般的だと思いますが、現役で一番輝いていたときの写真を使う。あの元役員らしいなと改めて思い、小さく笑みがこぼれました。新卒から約50年間わが社一筋で働き、そして社章の付けた写真を「遺影」にしてくれる。こちらが感謝です。一人でも多くそんな思いをもった仲間をつくっていければいいと考えました。

「同期」

北海道の同期から「ゴルフに来ないか?」と誘いがあり、間を置くよりも早々に応えようと雪解けの4月に行ってきました。当日は羽田経由で午前中に新千歳空港へ到着、迎えに来てもらってゴルフ場へ直行、おにぎりを食べて18ホールを廻りました。翌日もコンビニでおにぎりを買い、それを朝食と昼食にあててプレーしました。晴天の中2日間、ゴルフを楽しみました。北海道での4月のゴルフは初めてであり、本州との違いを感じました。北海道のゴルフ場の本格的な営業は一般的に5月からということで、4月中はシーズンオフとのことです。お風呂には入れず、レストランも営業していない状況でしたが、料金はそれぞれ6千円台、8千円台とお手頃でした。今回は札幌にいる同期2人と、帯広にいる同期が北広島のゴルフ場まで2時間余りかけて、2日間付き合ってくれました。ありがたい限りです。

今シーズン初のゴルフ。楽しみと不安が入り混じる中、4人でコースを廻りました。お互いに名前は呼び捨て。美少年で筋肉隆々だったのが今や太鼓腹、髪も真っ白になり、薄くなり、顔のシワが目立ち・・・。後半はクラブを振った後にふらついてしまうだらしなさ。笑いがあふれました。気合いを入れても体力はついていかず、気持ちだけは16歳に戻ってのゴルフでした。同期の消息や学校の思い出など話が尽きることはありませんでした。そして「ゴルフ、何歳までできるかなぁ」「75歳ぐらいまでかなぁ」という会話。あと5年。16歳で出会い今70歳になろうとしている同期、あと何回会えるかという思いと、今この瞬間を楽しまなくてはという思いが交差する時間でした。

2日目の夜、札幌在住の別の同期も宴会に加わり、場を盛り上げてくれました。その時、私と親しくしていて卒業以来会ったことのない同期の話になりました。彼は陸上航空(陸上自衛隊の航空科)のパイロットをしていて、ほとんど北海道内での勤務と聞いていました。その彼が「余命宣告」を受けたとの話になり、急激に酔いが冷めていきました。その場から、何回か教えてもらっていた彼の携帯に電話しましたが、繋がりませんでした。富山に帰る翌朝も電話しましたが繋がらず、ショートメールで「元気ですか。話は聞いた、よかったら電話ください。」と入れたところ、新千歳空港に着いた頃に、彼からメールが入りました。「明日から入院、もう家にも帰れないかも。元気なうちに会いたかった、さようなら。」私は読むか読まないかのうちに電話をかけました。出てくれ!何回かのコールの後、50年ぶりの声が!「元気なうちに会いたかった」と言われた途端、涙があふれました。お互い嗚咽になりましたが「元気になって会おう、最後まであきらめるな」という言葉を何とか絞り出しました。しばらくは放心状態でした。

富山に帰ってから何回かメールを送っていますが、彼からの返信はありません。しかし、送り続けます。「同期」だからです。

2025入社式 社長挨拶

この春、我が社に1名の新入社員が仲間入りしました。

入社おめでとうございます。いま緊張の中にいると思いますが、ここにいるみんなが歩んできた道です。あせることなく、ゆっくりと一歩ずつ歩んでください。今日は入社に際して、意識してほしい3つのことをお伝えします。

まずは「挨拶をする」いうことです。挨拶はコミュニケーションの基本です。朝の「おはようございます」から始まり、「お疲れ様です」、「お先に失礼します」まで、相手に身体を向けて目を見て、しっかりと挨拶してください。会社では人生の先輩がいろんなことを教えてくれます。挨拶から始まり、教えを聞き、そして質問をしてください。聞いて理解しているからこそ、質問ができるのです。質問することで相手もこちらを信頼してくれます。「わからなければ聞く」ということを習慣にしてもらいたいと思います。それと小さなノートを持ちメモを取る習慣を身に付けてください。社会では積極的に情報を取る姿勢が求められます。大げさかもしれませんが、学校では教室で座っていれば先生がいろんな情報を与えてくれた、いわば「受け身の教育」でした。これと違い、社会ではまず「自ら情報を取りにいく」ことが求められます。ジッとしていては情報をもらえません。これから出会う人生の先輩に、いろんなことをどんどん聞いて、多くの知識を蓄えてもらいたいと思います。そのためには挨拶から始まり、コミュニケーションの幅を広げ、積極的に情報を取ることを心がけてください。

2つ目は「安全への意識」です。学校では「安全」ということについてあまり考えてこなかったかもしれません。社会では「安全はすべてに優先」します。「工事の安全」は大事な要素です。重大事故が発生すると官庁工事では指名停止になり、受注の機会を失います。民間工事でもお客さんに多大な迷惑をかけ信用を落とします。事故はあってはいけないことです。現場は一日一日、完成に向かって変化していきます。昨日と同じだと勝手に判断して行動していると、事故に結びつきます。現場では毎朝、作業の打ち合わせをします。どんな工種の業者が入り、工事の作業内容は何なのか、そしてどこに危険が隠れているのか、最初のうちは先輩の指導に従って行動し、安全への意識を高めてください。そして徐々に知識を蓄えることで、安全に対する「勘」を磨いてほしいと思います。

3つ目ですが、「会社には無駄な仕事はない」ということです。コピー取りなど単純な仕事もあると思いますが、それにも意味があります。どこを中心にコピーするのか、相手が欲しているものは何なのか、いろいろと考えることがあります。また、現場においては「清掃」という作業も多々出てきます。この作業を無駄だとは決して思わないでください。清掃は安全に直結しますし、作業効率を高めることにもなります。品質管理や工程管理につながりますし、清掃しながら現場を理解することにもなります。私の経験から、清掃が行き届いている現場は、事故がなく利益も出る現場だといえます。またお客さんの評価も上がります。学校では教室で「知識」を学びました。これを社会では「知恵」に変えていかねばなりません。そのためには「知識」+「経験」が大事になってきます。現場での作業や人との交流を通じて、今持っている「基本の知識」を「生きた知恵」に変えてもらいたいと思います。

あせらずに、一歩一歩を確実に歩んで、成長してください。期待しています。ここにいる全員が歓迎するとともに、心から応援をしています。

卒園式

昨日、春らしい陽気の中、関連法人の保育園の卒園式が行われました。

卒園児のご両親はスーツ姿や洒落た服装で出席されていました。奥さんはスマホを持って前のほうへ着席、旦那さんは後ろで立ったままビデオ撮影、近頃の卒園式ならではの光景です。そういう私も後ろで三脚を立てて撮影していた一人でした。

「卒園児入場」、卒園児たちが大人びたネクタイ姿やスカート姿で、自慢げに満面の笑みを浮かべての入場です。「卒園証書授与」、園長先生から証書をもらい、それを親に預けるわずかなタイミングで見せる親子の微笑みが幸せを感じさせてくれます。

そして式の最後に、卒園児が「お別れの言葉」として歌で一年の思い出を紹介するのですが、あれだけの長い内容・歌詞を、よく覚えられるものだと感心しました。一人ひとりに慈愛のこもった目配りをしながら指揮する担任の保育士さん、そしてそれに応えようとする卒園児、観ている私は胸がいっぱいになり、熱いものがこみ上げてきました。歌詞も「みんな他人とは違う自分の色を持っている。それが集まると素敵な色になり、鮮やかに光る。みんな違う色でいい、知らない色を探しに行こう。」という内容だったと思います。この歌詞の意味を卒園児さんはしっかり理解しているなと私は感じました。これからも自分の個性を大切にし、周りの友達の個性も尊重し合って、共に成長してもらいたいと考えます。

ふと思い出したことがあります。何年か前の運動会で年長児による騎馬戦があり、親が参加できないとのことで急きょ、私が「馬」になったことがありました。帽子を取ったか取られたかは覚えていませんが、その後、私が園内を歩いていると、騎手役だった子が教室から走って私の前に出てきました。満面の笑みでした。「元気にしてるか?」と言うとニコッとうなずいてくれました。大切な思い出を創れたと感じ、嬉しく思いました。

「三つ子の魂百まで」、保育園での出会いは子供たちにとって親以外の人と会う初めての場、一生の中でも大切な場であることを改めて感じました。

”蔦重”

先日、NHKの「英雄たちの選択 スペシャル 大江戸エンタメ革命」という番組を観ました。今年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の“蔦重(つたじゅう)”こと「蔦屋重三郎」を時代背景とともに取り上げていました。

時代は18世紀の江戸、老中は田沼意次。江戸の町民文化が花開き、脂の乗った時代、蔦重は文化の発信地「吉原」を舞台に遊郭の「ガイドブック」を刊行して話題を呼び、版元、編集者として江戸文化を大いに盛り上げました。ところがその後、松平定信の時代になると「寛政の改革」のもと質素倹約が奨励され、江戸文化の魅力を規制する動きが強まり、蔦重は窮地に陥ります。そんな厳しい規制の中で見つけたのは、歌麿らが描く「美人画」。花魁(おいらん)や茶屋の町娘を「ブロマイド」として描いたもので再起を図ります。幕府はそれでも版元である蔦重に圧力をかけます。それに対し苦渋の選択で、蔦重は版元の名や絵師の名も消した木版画を世に出しました。

寛政の改革は5年間続き、松平定信の老中辞任で幕を降ろします。そのあと蔦重が目を付けたのは、芝居小屋の「役者絵」。写楽らが描く今までの美人画とは違う写実的な、いわば不細工な浮世絵を出しましたが、役者の欠点的な特徴までもが強調される作風が不評のまま、蔦重は寛政9年に48歳で生涯を終えました。

しかし、その蔦重の版元からは次の時代を彩った版元がいくつも誕生します。また後世、写実的で不細工な絵はヨーロッパの地で評価が高まります。蔦重には時代の先が見えていたのでしょう。その時代、お上の規制を巧みに乗り越え、職人たちの生活を守り、華やかな江戸文化の立役者となったのが“蔦重”こと「蔦屋重三郎」でした。

私は以前から、NHKの大河ドラマは現代を反映している番組だと思っています。今の世は、令和の脂が乗った時代だと思います。飽食の時代である一方、海外の影響や我が国の政権で我々の生活が変わる時代、その中でいかに知恵を使い生き残れるか、蔦重の時代と似ていると感じます。

また、蔦重はすべて「紙」で文化を伝えました。永い間、文化は紙で伝えられ「紙は文化のバロメーター」と言われてきました。しかし今ではペーパーレスの時代となり、その言葉も危うくなりつつあります。現に新聞や書籍の発行部数は減るばかりです。デジタルやディスプレイ上でしか表現できない文化、それが次の時代に残せるのか、疑問に思います。

私はインターネットで読む文字は「見る」と表現します。新聞や書籍では、それこそ「読む」です。「見る」と「読む」では大きな違いです。私は紙文化の「復興」ではなく、紙文化の「繁栄」を祈念したいと思います。

追伸 2024年の新聞用紙の生産量は5年前に比べると約4割も減少しています。ある知り合いの紙屋さんは「このままでいいのか!」と嘆き、紙文化が伝承されることを心から願っておられました。

今季最強寒波と除雪

本日2月11日は「建国記念の日」です。我が家では祝日に「日の丸」を掲げます。今朝も7時過ぎに「日の丸」を玄関先に掲げて「一礼」。そして散歩しようと雪道を歩き始めると、広い通りの両脇に「雪の壁」ができていました。

今シーズン最強で最長の「大寒波」は、2月4日から10日まで断続的に富山を襲いました。我が家も家族総出で除雪する日が続きました。玄関先の車寄せは毎日スコップで、車庫の上の雪降ろしも数年ぶりに。毎日天気予報をチェックして、グループ会社の社員たちにも早めに帰宅してもらい、私は早朝4時からタイヤショベルでの除雪、富山は「雪国」であることを改めて感じた一週間でした。

実は、今朝も早い時間に除雪の重機が通る音を布団の中で聞いていたのですが、雪の峠は越したものと思って、気にもせずのんびりとしていたのでした。しかし道路に残っていた雪を削って新たつくられた道沿いの「雪の壁」。それも一日おいて水分を含んだ重くて硬い雪で、スコップでは手ごわい相手です。「これはいけない」と早々に散歩を切り上げて、タイヤショベルに乗って「除雪」スタート。頑固な雪の壁を取り除いていきます。いつもの三か所を一時間半余りかけて除雪しました。「除雪」は雪が降っている時に行うものと思い込んでいましたが、雪がおさまってからも行うことを知りました。

祝日の朝、玄関先でスコップを持って除雪しておられる方を多数見ました。その前をタイヤショベルで通り過ぎていく。スコップを止めてショベルを見上げる目線に、頭を下げて通り抜けるしかありません。そんな私も一段落がつけば、近所の方の除雪を手伝います(できる範囲ですが)。今朝も高齢の男性がスコップを持って自宅前を除雪しておられました。「ヘタですが、斜めに進んで玄関先の雪を取りましょうか?」と聞くと、「ばあちゃんが今日デイサービスで迎えの車が来るんで、頼みます。」という返事が。ヘタでも回数を重ねればできる!という思いで、恐る恐る玄関先の雪を取りました。

「これ以上は無理ですけど。」「じゅうぶんです、ありがとう。」地域の建設業としてのあるべき姿がここにあるのでは・・・と感じたひと時でした。

喪中はがきに想う

当ブログ「社長のひとりごと」、本年もよろしくお願いいたします。

毎年、年末年始になると喪中のはがき、寒中見舞いのはがきが数枚届くのですが、今回「えっ!」と思わず声を詰まらせてしまった方が二人おられました。

私の大学時代に、下宿していた大阪の風呂屋の息子さん。富山出身の初代が開業した風呂屋の二代目で、私より7、8歳年上の本人いわく「嫌々風呂屋を継いだ」ということでしたが、なかなか印象の強い人でした。大阪の風呂屋は富山出身者が多いらしく、確かこの方の叔父さんも風呂屋を営んでおられました。当時、私の従兄が北陸銀行の大阪支店に勤めていたご縁で、下宿先にと紹介されたのでした。2階に4畳半と6畳の部屋、水洗トイレ付き、屋上もあり、風呂入り放題で家賃1.5万円、ただし階下は「風呂釜」と「おがくず倉庫」。冬は暖かいのですが、夏は蒸し暑く、虫もちょくちょく出現、そこに昭和51年頃から約3年間下宿させてもらいました。自衛隊を辞めて昼間の大学生活を始めた時で、「憧れの大学生」のはずでしたが、一週間余りで「自衛隊シック」。一人でいることが寂しく、時間を持て余し、自衛隊にいたら今頃何をしていただろうか、そんなことばかり考えていました。一人で食事をしていても侘しい気持ちになったものです。その時に声をかけてくれたのが、この風呂屋の二代目の息子さんでした。喫茶店に誘ってくれたり、一緒にキャッチボールをしたり、魚釣りに行ったりしました。競馬にも連れて行ってくれました。なけなしの金をはたいたこともあり、世俗的な生活に馴染ませてもらいました。私も暇な時には「おがくず」をトラックから降ろす作業などを手伝ったりしていました。「寺やん!」という大きな声が、今でも私の耳の奥底に残っています。

もう一人は、私が中学三年生の時の担任の先生。当時三十代の女性で英語の先生でした。私はあまり成績が良くなかったので、先生もいろいろと困っておられたと思います。三年時の年末に父のすすめで受けた「少年工科学校」の一次試験があり、年明け早々に二次試験の面接、合否は1月中旬の発表だったと記憶しています。一次試験は学校で二つの教室を使っていましたから、80人ぐらい受験していたと思います。最終的な合格者は確か4名でした。合格発表の後、初めて先生にこの学校を受験して合格したことを伝え、「どうしたらいいですか?」と相談しました。先生からは「その学校へ行くんなら県立高校は受けんといて」と一言。予想外の言葉に唖然としたのを、今でもはっきりと覚えています。結果として高校受験をせずに、昭和46年4月5日に横須賀へ旅立ちました。先生に相談に行ったのに突き放されたと思っていましたが、よく考えてみればその一言で吹っ切れたのだと思います。言わば中途半端な私の背中をポンと押してくれたのです。あのまま高校を受験していたら、友達の多い地元の高校に進んでいたかもしれません。今となっては、先生には感謝の気持ちでいっぱいです。いつかこのことを伝えたかったのですが、残念ながら叶いませんでした。

私は多くの人たちに巡り会い、育てられました。すべての人たちに感謝です。